第2話:実家(?)の安心感と、異世界ネットスーパー
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。
耳慣れた、少し安っぽい電子音が枕元で鳴り響いた。
重い瞼をこすりながら、手探りでスマホの画面をタップしてアラームを止める。時刻は朝の七時ちょうど。
ふんわりと香る柔軟剤の匂い。背中を包み込む、使い慣れたマットレスの適度な反発力。
「んん……お母さん、今日のお弁当なに……」
寝ぼけ眼で起き上がり、ぼんやりと天井の木目を眺める。
いつもの朝だ。学校に行って、友達と他愛のない話をして、帰りにコンビニで買い食いをする、ありふれた一日が始まる。
そう、きのう見たあの光景――金髪の王子様に『不要だ』と見下され、化け物が蠢く森に捨てられたあの恐ろしい出来事は、全部ただの悪夢だったんだ。
「あー、変な夢見た……」
のびをしながらベッドから降り、星柄のカーテンを勢いよくシャーッと開けた。
「…………」
窓の向こうに広がっていたのは、見慣れた隣の家の屋根でも、通い慣れたアスファルトの道路でもなかった。
朝日を遮るほどに鬱蒼と生い茂る、巨大で不気味な広葉樹の群れ。
そして、私の部屋の窓からわずか数メートル先の茂みの中で、イノシシと熊を足して二で割ったような赤目の獣が、昨日の食べ残しらしき『何か』の骨をバリバリと噛み砕いている光景だった。
「……うん。夢じゃなかったわ」
ピシャリ、と無表情のままカーテンを閉める。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始めたが、深呼吸を一つして自分を落ち着かせた。
ここは間違いなく、あの恐ろしい『還らずの森』のど真ん中だ。
でも、私は生きている。
どういう理屈かはさっぱり分からないけれど、私に与えられたハズレ魔法【マイルーム】は、この異世界の森の真ん中に、日本の実家にある『私の部屋』をそっくりそのまま召喚してしまったらしい。
しかも、どうやらこの部屋はただの部屋じゃない。
そっとカーテンの隙間から外を覗き込むと、部屋の外壁を覆うように、薄いシャボン玉のような光の膜が張られているのが見えた。
試しに窓の鍵を開け、少しだけ隙間を作って手を伸ばしてみる。私の手は光の膜をすんなりと通り抜けた。
けれど、外で骨をかじっていた赤目の獣がこちらの気配に気づき、猛スピードで突進してきた瞬間――。
ガンッッ!!!
ものすごい衝突音と共に、獣は光の膜に激突し、無様な悲鳴を上げて地面に転がった。膜にはヒビ一つ入っていない。
私が内側から干渉することはできるけれど、外からの攻撃は一切通さない。完全無欠の絶対防御バリア。
「……これ、マジで最強の引きこもり要塞じゃん」
思わず口元が緩む。
あの傲慢な王子は、私を「穀潰し」と呼んで鼻で笑った。私に魔力がなくて、戦う力もないからと、ゴミのように捨てた。
でも、どうだ。
私は今、この世界で一番安全な場所で、ふかふかのベッドとエアコンの効いた快適な空間を独り占めしている。
『ぐきゅるるるる……』
と、その時。気の抜けた音が部屋に響いた。
安心したら、急に現実的な問題が押し寄せてきた。お腹が空いたのだ。
昨日の昼休みに購買のパンを食べて以来、何も口にしていない。
部屋を見渡す。
小型の冷蔵庫はあるけれど、中に入っているのは飲みかけのミネラルウォーターと、いつ買ったか分からない板チョコが半分だけ。これじゃ一日も持たない。
「電気も通ってるし、Wi-Fiも生きてる……ってことは」
ベッドに放り投げていたスマホを手に取る。
画面右上には、しっかりと『5G』の文字と、アンテナが四本立っている。異世界なのに、なぜか日本の通信網と繋がっているというバグみたいな状況だ。
私は震える指で、いつもお母さんが使っていた『ネットスーパー』のアプリを起動した。
画面には、見慣れた特売品のチラシや、新鮮な野菜、お惣菜の画像がずらりと並んでいる。
とりあえず、今すぐ食べられそうなものをカートに放り込む。
鮭おにぎり二個、唐揚げ弁当、それに500mlのミルクティー。あと、食後のポテトチップス(うすしお味)も。
合計金額、1,280円。支払い方法は、私のお小遣いが入っている電子マネー決済を選択。
「……ポチッとな」
購入確定ボタンを押す。
画面には『ご注文ありがとうございます。最短10分でお届けします』という見慣れた文字。
「いや、いくらなんでも異世界までは無理だよね……」
そう自嘲気味に呟いた、ちょうどその時だった。
『ピンポーン♪』
静かな部屋に、電子的なインターホンの音が鳴り響いた。
ビクッと肩を揺らし、恐る恐る部屋のドア(どう見ても普通の室内用の木製ドアだ)に近づく。
本来なら廊下に繋がっているはずのドアの向こうは、今はあの恐ろしい森のはずだ。
ドアスコープを覗き込む。
そこには、赤目の獣の姿はなく、ただ落ち葉が積もった森の地面と……私の部屋のドアマットの上にポツンと置かれた、見覚えのあるスーパーのロゴが入ったレジ袋が見えた。
「うそぉ……」
ガチャリ、と鍵を開け、ドアをほんの数センチだけ開ける。
外の冷たくて土臭い空気が流れ込んでくるのと同時に、レジ袋の持ち手を引っ掴み、光の速さでドアを閉めて鍵を二重にかけた。
ドサッ、と床に置いたレジ袋の中身を見る。
まだ温かい唐揚げ弁当。冷たく結露したミルクティーのペットボトル。
「……ふふっ」
最初は堪えきれない笑い声だった。それが次第に大きくなり、私は部屋の中で一人、お腹を抱えて大爆笑した。
「あははははっ! 何これ、最高! 異世界、ちょー余裕じゃん!!」
私を捨てたあの国の連中、今頃どうしているだろう。
真の聖女様とやらを囲んで、優雅にティータイムでもしているのだろうか。
別にどうでもいい。
彼らがこれから血みどろの戦いをしようが、国が滅びようが、私には一切関係ない。
私は唐揚げ弁当の蓋を開け、温かいご飯を口いっぱいに頬張った。
噛み締めるたびに、ジャンクで濃い醤油の味が口の中に広がる。生きている味がした。
「うん、決めた。私、一生ここから出ない」
誰にも邪魔されない、絶対安全なマイルーム。
スマホ一つで現代の物資が届く、夢のような環境。
こうして、橘栞奈(17歳)の、異世界での極楽引きこもりライフが幕を開けたのだった。




