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第11話:スマホの通知と、暗雲垂れ込める「聖女」の現状

フリマアプリの売上で購入した、待望の文庫本(本格ミステリ・580ページ)。

静まり返った夜の部屋で、エアコンの心地よい風を浴びながら紙のページをめくる時間は、まさに至高の一言に尽きた。

ベランダのテントからはレイさんの規則正しい寝息が聞こえ、ドアの外からはハクが時折「すぴー……」と気の抜けた寝言を漏らしている。


(……うん、完璧。これぞ私の求めていた理想の引きこもりライフだよ)


理不尽に異世界に放り出されたときはどうなることかと思ったけれど、日本のネットスーパーとフリマアプリ、そして二匹(一人と一頭)の優秀な従業員がいれば、この最凶の森は世界で一番安全なパラダイスだ。

栞奈、17歳。このまま一生、この十畳間で平穏に暮らすことをここに誓います。


そう満足げに頷き、本にパタンと栞を挟んだ、その時だった。


――画面が、不意に明滅した。


ベッドの脇に置いていたスマホが、ぶるりと短く震える。

見ると、画面には普段あまり使わないメッセージアプリの通知が表示されていた。


『橘さん、お願い、返事をして――』


心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。

送り主の名前は『瑞希』。私と一緒にこの異世界へ召喚され、今頃は王宮で「真の聖女」としてチヤホヤされているはずの、高校の同級生だ。


驚きで指先を少し震わせながら、ロックを解除してトーク画面を開く。

そこに並んでいたのは、およそ「聖女」という華やかな立場には似つかわしくない、悲痛な叫びのような文章の羅列だった。


『橘さん、生きてる? 届いてる?』

『私、もう限界かもしれない』

『あの王子も、教会の大人たちも、みんな私のこと道具としか思ってない』

『明日、隣国との国境近くで「聖女の奇跡」を披露しろって言われてるの。でも、本当は戦争を起こすための口実に私を利用するつもりなんだ。レイナード団長が言ってたことは本当だった』

『お願い、誰でもいいから助けて――』


「……瑞希」


画面を見つめたまま、私は唇を噛み締めた。

メッセージの送信日時は「たった今」。マイルームの電波は、どうやら王宮にいる瑞希のスマホとも奇跡的に繋がっているらしい。


スクロールする指が止まらない。

文面から察するに、彼女は今、完全に精神的に追い詰められている。

学校にいた頃の瑞希は、いつも一歩引いて周囲の顔色を窺っているような、おとなしくて断れないタイプの女の子だった。そんな彼女が、海千山千の王族や貴族たちに囲まれて、まともな精神を保っていられるわけがない。


(やっぱり、あの金髪クソ野郎……瑞希のことも利用するだけ利用して、使い捨てる気なんだ)


ふつふつと、腹の底から静かな怒りが湧き上がってくる。

私を「役立たず」と罵って森に捨てた王太子セオドア。今度は残された瑞希を、自分の野心のための操り人形にしようとしている。


「……栞奈様? 起きておいでですか」


カーテンの隙間から漏れるスマホの光に気づいたのか、ベランダのテントからグレーのスウェット姿のレイさんが顔を出した。群青色の瞳が、夜の闇の中で心配そうに私を見つめている。


「レイさん、ちょっとこれ見て。瑞希からラインが来た」


「らいん……? 聖女、瑞希様からですか!?」


ベッドの下に歩み寄ってきたレイさんに、私はスマホの画面を見せた。

レイさんは並んだ日本語の文字こそ読めないものの、私の深刻な表情と、瑞希のアイコンからただ事ではない気配を察したようだった。私がメッセージの内容を口頭で翻訳して伝えると、彼の端正な顔が怒りで引きつった。


「やはり、セオドア殿下は動き出しましたか……。瑞希様の『聖女の結界』の力を誇示し、意図的に隣国を挑発して開戦の大義名分を得る。それが殿下の計画です。今、瑞希様に逃げ出す術はありません。周囲はすべて、殿下の息がかかった騎士たちで固められているはずです」


「……場所は、ここから遠いの?」


「国境の砦ですね。ここ『還らずの森』の北端を抜けた先にあります。ハクの足であれば半日、私の足でも丸一日あれば辿り着けますが……」


レイさんはそこで言葉を濁し、痛ましげに私を見た。


「栞奈様。貴女が瑞希様を案じるお気持ちは分かります。しかし、どうかご無理はなさらないでください。貴女はこの聖域から一歩も出られない。それに、あの国に裏切られた貴女が、危険を冒してまで彼らを助ける義理はありません」


「……そうだよね。私、ただの引きこもりだし」


私はスマホを胸に抱え、天井を見上げた。

レイさんの言う通りだ。私は部屋から出られないし、出るつもりもない。そもそも、魔法も使えないただの女子高生が、一国の軍隊や王太子に敵うわけがないのだ。


放っておけばいい。関わらなければ、私はここで安全に、ずっとお肉を食べて小説を読んで暮らせる。


けれど。

画面の向こうで、泣きそうな顔でスマホを握り締めているであろう瑞希の姿が、どうしても頭から離れなかった。あの国に切り捨てられたときの絶望を、私は誰よりも知っている。


『お願い、誰でもいいから助けて――』


最後のメッセージが、私の心に深く突き刺さって抜けない。


「……レイさん。私、部屋からは出られない。でもね」


私はスマホの画面を強くタップし、フリマアプリとネットスーパーのアイコンを睨みつけた。


「部屋の中にいたままでも、あいつらの邪魔をして、瑞希を引っ張り出すくらいの手は、いくらでも考えられると思うんだよね」


私の言葉に、レイさんが息を呑む。

外では、いつの間にか目を覚ましていたハクが、静かにその琥珀色の瞳を輝かせてこちらを見ていた。


ただの引きこもり女子高生の十畳間。

そこは今、一国の陰謀を部屋の中からひっくり返すための、前代未聞の「作戦本部」へと変わりつつあった。

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