異国の商人
ひととおりのご挨拶が済み、ようやく針の筵のような王妃の椅子から解放された。
「少し、風に当たってまいります」
「うん。ゆっくりしておいで」
アルベルト様に見送られ、私は侍女を伴って広間を出た。
廊下を進み、庭に面したところまで来ると、ひんやりした夜風が頬に触れた。
これなら、顔の熱も少しは冷めるかもしれない。
「王妃様。おくつろぎのところ、恐れ入ります」
声をかけられて振り返ると、商人らしい男性が二人、少し離れて立っていた。
一人は、立派な口ひげを蓄えた年配の男性。もう一人は、異国風の長衣をまとった、色黒の青年だった。
「今宵、香油を献上いたしました商会の者にございます。お気に召しましたでしょうか」
「ごめんなさいね。まだ見ていなくて」
「さようでございましたか。お許しいただけましたら、こちらでいくつかご紹介してもよろしいでしょうか」
年配の商人が、小さな化粧箱を示した。
正直、気が乗らない。けれど、角を立てずに断る方法も思いつかず、私はうなずくしかなかった。
商人がそばの卓に箱を置き、蓋を開ける。並んだ色とりどりの小瓶に、隣の侍女が目を輝かせた。
「当商会自慢の香油です。お仕えの皆様にも、ぜひ進呈させてください。もちろん、お代はいただきません」
遠慮する侍女に、私はうなずいた。
「せっかくだから、皆さんの分も選んで差し上げて」
「よろしいのですか? 王妃様、ありがとうございます」
侍女が礼をして箱をのぞき込むと、色黒の青年が私に別の小瓶を示した。
「王妃様には、こちらを。香りが混ざらぬよう、少し離れたところでお試しください」
侍女を卓に残し、青年と庭に近い場所へ移る。数歩離れると、侍女と商人の会話は、広間から流れる音楽に紛れて聞き取れなくなった。
差し出された試香紙へ手を伸ばしたとき、青年が耳元でささやいた。
「楽しくやってるみたいじゃないか」
聞き覚えのある声に驚き、私は青年の顔をまじまじと見つめた。
日に焼けた肌も、異国風の装いも、見覚えはない。けれど、からかうような口調と、耳になじんだ声は、聞き間違えようがなかった。
「……シド?」
怪訝な顔で、黒百合で共に教育を受けた仲間の名を口にする。
「顔に出すな」
香りを勧めていたときと同じ笑みを浮かべたまま、シドが小さく言った。
私はとっさに侍女を見た。
彼女は年配の商人から、二本目の試香紙を受け取っている。こちらを気にするそぶりはない。商人がうまく興味を引きつけているようだった。
……あちらも仲間なのね。
私は試香紙を鼻先へ近づけ、香りを試すしぐさをしながら話を続けた。
「どうして、ここにいるの」
「商人に紛れた」
「そういう意味じゃなくて。連絡は、もっと先の予定でしょう」
ヴァルネア王国が、アルディス王国への再侵攻の準備を整えるまで、少なくとも二年。
アルベルト様の暗殺も、その前後の予定だと聞いていた。
それまでは、王妃として信用を得ながら情報を集める。直接の接触は、当分ないはずだった。
「何か、予定が変わったの?」
「組織からは何も言われていない。俺の独断だ。予定を変えたくなるものを見たんでね」
シドは私の手から試香紙を受け取り、代わりに別の一本を差し出した。
「ずいぶん親しげだな、王と」
「夫なんだから、当然でしょう」
言い返し、渡された試香紙へ目を落とす。
「1週間しか経ってないんだから、まだまともな情報なんて得られてないわよ。とにかく、まじめにやってるから。そう報告しておいて」
「まじめにやってる、だと? それで誤魔化せると思ったか?」
思いがけず冷たい声に、顔を上げた。
シドの口元には商人らしい笑みが残っていた。けれど、その目は少しも笑っていない。
「お前、あの男に惚れかけてるだろ」
息が詰まった。
「……何を根拠に」
「夜会の間中、あの男を見るたび、顔が緩んでたぞ」
うそ。そんなに顔に出ていたの?
頬に手をやりそうになって、どうにかこらえた。ここで動揺したら、認めるようなものだ。
「仲よくするのも仕事のうちでしょう」
「俺にまで、その説明で通すつもりか」
シドとは、付き合いが長すぎる。なにせ、幼い頃から共に訓練を受けていたのだ。
誤魔化すのは無理かもしれない。
答えられずにいると、彼は短く息を吐いた。
「今なら、まだ間に合う」
「何が」
「気持ちを切り替えろ。黒百合の命令を拒んで、無事に済むわけないだろ」
そんなこと、わかっている。
アルベルト様を殺さずに、私も生き延びる。そんな都合のいい方法なんて、何ひとつ思いつかない。
それでも、あの方を殺すのは嫌だった。
「……任務に私情は挟まない」
「今夜の顔を、俺以外の誰かに見られていたら?」
その言葉には、すぐに返せなかった。
「今回は、問題にならないように報告してやる。だが、次も俺だとは限らない。お前があの男に惚れていると判断されたら、組織はどうすると思う」
組織の秘密をばらす可能性がある者には死を。
それしか考えられなかった。
黙り込んだ私を見つめたまま、シドが唐突に言った。
「逃げるか?」
「え?」
「侍女はこっちを見ていない。今なら、庭園の奥へ抜けられる。平民の服に着替えて、俺の馬車に乗ればいい」
「シド?」
本気なのか、冗談なのかわからず、彼の顔を見た。
「冗談じゃない。これは本気だ」
シドは、何かと冗談を口にする男だ。真面目な話をしていても茶々を入れてくるから、何度怒ったかわからない。
けれど、今の目にふざけた色はなかった。
「……どこへ?」
「どこでもいいさ。黒百合の手の届かないところへ。名前も顔も変える。そういうことなら得意だろ」
「私を逃がしたら、あなたはどうなるの?」
「俺も行く」
あまりにも簡単に言うので、しばらく意味がわからなかった。
一緒に逃げる。
任務も、今までの暮らしもすべて捨てて。
……できるわけがない。組織を抜けた者への制裁がどれほど過酷か、シドだって知っているはずだ。
「めったなことを言わないで」
私は思わず、彼の袖をつかんだ。
「そんなことが知られたらどうするの。あなたまで裏切り者になるでしょう」
「一緒に逃げるなら同じことだ」
「心配してくれるのはうれしい。でも、あなたがそこまでする必要はないわ」
昔から、そういうところがあった。
私が失敗すると、頼んでもいないのに手を貸して、一緒に叱られる。子供の頃は、それでよかった。
でも、今度は叱られるだけでは済まない。
「王妃様、いかがなさいましたか?」
香油を選び終えた侍女が、こちらへ声をかけてきた。
シドの目元が和らぎ、愛想のよい商人の顔に戻る。
私も、つかんでいた袖から手を離した。
「とても素晴らしい香油を見せてもらっていたの。新作ができたら、また見せて頂戴ってお話していたところよ。あなたも、気に入ったものは見つかって?」
「はい。たくさんいただきましたので、王妃様付きの侍女たちで分けますね」
「それはよかったわ。寒くなってきたから、もう戻りましょう」
私はシドと、卓のそばに控える年配の商人へ向き直った。
「素敵な香油を、ありがとう」
二人がそろって頭を下げる。
立ち去る前に、もう一度だけシドを見た。
どうか、危険なことはしないで。
目を見つめて心の中で念を押す。
シドは商人の笑みを浮かべたまま、私を見返した。
伝わったかどうかは、わからない。
それでも、これ以上ここにはいられなかった。
私は侍女を伴い、広間へ戻った。




