何があっても
最悪だ。シドに見抜かれた。
私は夫婦の寝室で、広い寝台の上に膝を抱えていた。隣はまだ空いている。アルベルト様は、お仕事が長引いているらしい。
夜会の間、あの方を見るたびに顔が緩んでいた、と言われても否定できない。たぶん、そうだったんだろうと自分でも思う。
今後は気をつけなければ。でも、気をつけるって、どうやって?
この気持ちを、なかったことにするの?
孤児だった私は、幼い頃に黒百合に拾われてからずっと、言われたとおりに生きてきた。礼儀作法を覚えろと言われれば覚えた。侍女として屋敷へ入れと言われれば入った。自分の人生を自分で決めることなんて、ほとんどなかった。
食べさせてもらい、育ててもらったのだから、組織の役に立つ。与えられた仕事をこなして、生き延びる。周りの子供たちもみんなそうだったし、それ以外の生き方なんて、考えたこともなかった。
それでも、ひそかに恋愛小説を読むたび、憧れた。好きな人に会うために服を選び、たった一言に喜んだり、眠れなくなったりする。私も一度くらい、そんな恋をしてみたかった。
けれど、知らなかった。誰かを好きになると、ただ会えるだけでは足りなくなるなんて。
笑ってほしい。疲れているなら、休んでほしい。困っているなら、頼ってほしい。あの方が私に向けてくださる優しさを、私も返せる人間になりたい。
そこまで願ってしまってから、危ないから諦める?
……冗談じゃない。
そもそも私、正体がバレたら死ぬような場所に、何度も送り込まれてきたじゃない。今回は、三か月の教育で王女になれと言われたのだ。おまけに、宰相のローデリクにはほとんどバレている。
命令に従っていたって、明日も生きていられる保証なんかない。だったら、腹をくくるしかない。
もし、黒百合にあの方を傷つけろと命じられても、従えない。そのときは、組織ではなく、あの方を選ぶ。
もちろん、見抜かれないようにはする。人前では顔を引き締めるし、シドにも、次はうまくごまかしてみせる。
でも、二人きりのときまで、この気持ちを押し殺すのはやめよう。初めて、自分で選んだ人なのだから。
そこまで決めて、私は寝室の扉へ目を向けた。
……それにしても、遅いような。せっかく覚悟を決めたのに、肝心の旦那様が来ない。
膝をほどき、寝台を下りる。鏡の前で髪を整えていたら、扉を叩く音がした。
「アデリア。まだ起きている?」
「はい。お待ちしていました。お話がしたくて」
入ってきたアルベルト様が、扉を閉めたところで手を止めた。
「……そっか。うれしいな」
その笑顔に、こちらまで顔が緩む。でも、二人きりならいい。さっきそう決めたばかりだ。
「お茶を召し上がりませんか?」
「うん。いただこうかな」
彼がソファへ腰を下ろす間に、お茶を注ぐ。
「ありがとう。いい香りだね」
「お仕事は、もうよろしいのですか?」
「今夜の分はね。明日の分まで片づけようとすると、朝になってしまうから」
そんなにお忙しいのは、なぜなのだろう。夜会でのヴァルデン公爵とのやり取りも、関係しているのだろうか。
尋ねかけて、ためらった。ようやく仕事を終えたところで、立ち入ったことを聞いてもいいものか。
私が言葉を探していると、アルベルト様が焼き菓子の皿を差し出した。
「君も、食べて。甘いものは好き?」
侍女が一緒に用意してくれた焼き菓子を勧められ、うなずく。
「どんなものが好きなの?」
アデリア王女の好みを、頭の中で探す。確か、薔薇の香りをつけた、王都で人気の――。
だめだ。名前が出てこない。
「はちみつをつけた焼きたてのパン、です……」
何を普通に答えているのよ、私。
「ずいぶん簡素なものが好きなんだね。僕も、軍で野営をしていたときに食べたよ」
「アルベルト様も、召し上がるのですか?」
「うん。疲れているときは、あの甘さがうれしかったな」
「はい。温かいうちにつけると、じんわり染みて……」
「そうそう。つい、もう一つ食べたくなるんだ」
実感のこもったお返事に、笑ってしまった。
「今度、用意してもらおう。一緒に食べたいな」
「……はい。ぜひ」
王女ではなく、私が好きなものだった。それを覚えてくれて、また一緒に食べようと言ってくださる。
「ほかにも教えて。君のことを、もっと知りたいんだ」
頬が熱くなった。知ろうとしてくださっているのは、妻になったアデリア王女のこと。それは分かっている。
それでも、うれしかった。
「では、私からも伺ってよろしいですか?」
「もちろん。何が聞きたい?」
彼はすぐにうなずいた。
好きな食べ物。休みの日の過ごし方。尋ねたいことは、いろいろあった。
けれど、その少し疲れたお顔を見ていると、夜会でのことが頭に浮かんだ。ヴァルデン公爵を前に、いつもの笑みが消えた横顔。
私も、この方の支えになれたら。何に心を煩わせているのか、少しでも知ることができたら。
「……夜会でのことが、気になっていたんです。ヴァルデン公爵とは、以前からお考えが合わないのですか?」
アルベルト様の指が、カップの取っ手に触れたまま止まった。彼は少し目を伏せ、それから、私を安心させるように微笑んだ。
「多少、意見の違うことはあるよ。でも、君が気に病むことはないんだ」
「私をかばってくださったせいで、ご面倒を増やしてしまったのではありませんか?」
「それは違う。君のせいじゃない」
「では、何が……」
尋ねかけると、彼は困ったように眉を下げた。
「君に心配をかけたくないんだ」
気遣ってくださるのは、うれしい。でも、私が見たいのは、私を安心させるための笑顔じゃない。
あなたが心から笑ってくださることが、私の幸せなのだ。そのためにできること、私にだって少しはあるはず。
「……私には、話せませんか?」
「そういうわけではなくて」
言葉が途切れる。その先を待っても、彼はすぐには続けられなかった。
私のことは知りたいと言ってくださる。でも、ご自分のことは教えてくださらない。
「やっぱり、私は信用されていませんか?」
思ったよりも細い声が出た。アルベルト様が、顔を上げる。
「アデリア?」
「敵だった国から来たのですから、仕方がないとは思います。でも、私……」
何を言っているのよ、私。
もともと信用されるような人間ではない。私も偽物だが、本物のアデリア王女、そしてヴァルネア国王もアルディス王国の領土を狙っている。まさに悪役だ。
分かっているのに、喉が詰まった。
「すみません。こんなことを申し上げるつもりでは……」
笑って取り繕おうとしたら、かえって目の奥が熱くなった。慌てて顔を伏せる。
正体がバレたら死ぬかもしれない。それでも、この恋は諦めないと決めたのに。
この方に信用されていないかもしれない。たったそれだけで、どうしてこんなに苦しくなるのだろう。
カップを置く音がして、温かな手が私の手をそっと包んだ。顔を上げると、アルベルト様がこちらを見つめていた。
「君を疑って、話さなかったわけじゃない」
「……では、どうして」
「本当に、心配をかけたくなかっただけなんだ。でも、黙っていたら、かえって不安にさせてしまったね」
首を振る。うまく返事ができず、もう一度、首を振った。
この方は、本当に私のことを考えてくださっていただけなのだろう。
「……私も、あなたのことを知りたいんです」
ようやく、それだけ言えた。
「楽しいことだけでなくても……。あなたが何を気にかけているのか、私にも教えていただけたらと」
アルベルト様は、少し驚いたように私を見つめた。
「ありがとう」
彼はうれしそうに目を細めた。包まれた手に、そっと力がこもる。
「心を通わせようとしてくれる妻が来てくれて、僕は本当に幸せ者だよ」
偽物の妻なのに。あなたと心を通わせたいと願ってしまって、ごめんなさい。
本当のことは、言えない。それでも、あなたの力になりたい気持ちだけは、本物だから。
何があっても、私があなたを守ります。この命にかえても。




