優しい手
自室の寝台に横たわったまま、私は天蓋を見つめていた。
夕食はいらないと伝え、侍女たちにも下がってもらった。けれど、一人になったところで、考えは少しもまとまらなかった。
――暗殺者殿には、その愛をたっぷりと堪能していただきたい
昼間に聞いたローデリクの言葉が何度も頭の中で再生される。
……何なのよ、それは。
あのあと、ローデリクは何事もなかったように城内へ戻る扉を開けた。
「城の全景をお見せしましたし、案内はこれにて終了ということで」
白々しいにもほどがある。
腹立たしい。でも、それ以上に怖かった。
王女ではないことも、黒百合の命令で動いていることも、知られている。
今までどおり暮らせと言われたけれど、何かに利用して、用が済んだら処分するつもりなのかもしれない。
あの男の気が変われば、明日にも捕らえられるのだ。
大きな溜息をついたところで、扉を叩く音がした。
「アデリア。入ってもいい?」
アルベルト様の声を聞いて、私は慌てて起き上がった。
「……はい」
入ってきたアルベルト様は、寝巻きの上にゆったりとした上着を羽織っていた。手にした盆には、ポットとカップのほかに、小さく切った柔らかなパンと、湯気の立つスープの器が載っている。
「夕食を食べなかったと聞いたから。具合が悪いの?」
「すみません。少し疲れてしまって」
彼はベッド脇の小卓へ盆を置き、私の顔をのぞき込んだ。
「そう。少しでも食べられればと思って、持ってきたんだ。無理はしなくていいけれど、スープだけでもどうかな」
食べ物を見ても、全く食欲はわかなかった。けれど、せっかく持ってきてくれたのだ。
「ありがとうございます。あとで、いただきます」
微笑んだつもりだったが、アルベルト様の眉は心配そうに下がったままだった。
「顔色も、あまりよくないね。熱はない?」
「ないと、思いますが……」
彼が私の額へ視線を移し、そっと手を上げた。
「少し、触れてもいい?」
うなずくと、額にかかった髪をよけられた。そのまま彼が身をかがめ、額と額が重なる。
近い。
息を止めた私をよそに、アルベルト様は真剣だった。
「熱は、なさそうかな」
そっと離れてからも、心配そうな目をしている。
「休む前によいと聞いたお茶を、用意してもらったんだ」
「……ありがとうございます」
差し出されたカップを両手で受け取る。やわらかな香りと温かさに、急に泣きそうになった。
「慣れない環境なのだから、疲れるのは当たり前だよ」
彼は寝台の端に腰を下ろした。
「急いで慣れようとしなくていいから。ゆっくり休んで」
この人は、優しい。私が本当の妻だったら、この優しさに包まれてただ幸せを感じていればよかったのに。
それができないことが、無性に悲しい。
「……今夜は、隣で寝てもいいかな」
私は顔を上げた。
「一人の方が休めるなら、僕は別の部屋で寝るよ。……でも、嫌でなければ、今夜はそばにいたい」
夫なのだから、一緒に寝ると決めてしまっても、私は断れない立場だ。
それなのに、この人は私の返事を待ってくれる。
「もちろんです」
アルベルト様がほっと笑い、寝台の反対側へ回ろうとする。
私は、その袖をつかんでいた。
「アデリア?」
「あの……ひとつ、お願いしてもよろしいですか」
「うん」
「くっついて、寝てもいいですか?」
暗殺組織の女は幸せな生活なんて諦めるのが普通だ。でも、ひそかに恋愛小説を見てあこがれたこともあった。
どうせ私の命は、あの宰相の気分ひとつだ。今は見逃されていても、突然処刑台に送られる可能性もある。明日もここにいられる保証さえない。
それなら、最期まで聞き分けよくして、何になるのだろう。
一度くらい、望んだっていいじゃないか。誰かにそばにいてほしいと、ひとりにしないでほしいと。
この人の優しさにつけ込んでいる。そんなことは、わかっている。
それでも今夜は、ひとりで眠りたくなかった。
アルベルト様は私の言葉を聞いて目を丸くした。
「……もちろん」
そう言って肩を抱いてくれる。答える声も、肩を抱く手も優しかった。横目で見たらどうしようもなくうれしそうな顔をしていて、こちらが戸惑ってしまう。
「ごめん。君が元気でないときに、喜ぶのもおかしいね」
「うれしい、のですか?」
「うん。頼ってもらえたから」
胸の奥が、苦しくなった。
彼が隣へ入り、布団を掛け直してくれる。私が体を寄せると、背中へそっと腕が回された。
「苦しくない?」
「はい」
寝巻き越しの胸元に、頬を寄せる。
柔らかな布の下の身体は、想像していたよりずっと逞しかった。背中に回された腕にも、力がある。それなのに、私に触れる手つきは、どこまでも優しい。
これが演技だとは思えなかった。
この人は、きっと何も知らない。
では、あの宰相は何を考えているのだろう。
暗殺者だと疑っている女を、主君と二人きりにして。こんなに近くにいることまで許している。
――その愛を、たっぷりと堪能していただきたい。
結局、この意味のわからない言葉の通りの行動をしてしまった。
あの男の罠にかかっているということなのかもしれないけれど、今はそんなことはどうでもいい。背中に添えられた手が温かかった。
私はアルベルト様の寝巻きの袖を、ほんの少し握った。
ああ、もう。好きになってしまったんだ、私。
***
私室の窓辺に立ち、俺は杯の中の赤いワインをゆっくりと揺らした。
「今頃は仲良くやっている頃か」
杯に口をつけ、誰にともなく呟く。
夕食を取っていない妻が気になるのなら、様子を見に行けばいい。そうアルベルトに勧めたのは俺だ。
ただし、仕事着のままでは、顔を見たらすぐに戻るつもりだと思われる。先に寝巻きに着替えてから訪ねてはどうか、とも。
あいつは素直に頷いていた。
今夜はもう仕事に呼び戻されないとわかれば、彼女も安心して話せるだろう、と。
頭の中にチェス盤が浮かぶ。
自陣の王。そのすぐ隣へ、敵が送り込んできた駒。
本来なら、盤上から取り除くべきものだ。
だが、今はまだ、その必要がない。
「ヴァルネアは、こちらの王を殺せない」
講和の証として花嫁を迎えた直後に、アルベルトが死ぬ。
そんなことになれば、誰もがヴァルネアの仕業だと考える。暗殺を立証できるかどうかなど、報復を求める者たちには大した問題ではない。
アルベルトは、平時に見せる優しい顔だけの男ではない。自ら兵を率いて勝利を重ね、軍の信頼を集めている。
ヴァルネアにしてみれば、何としても排除したい相手だろう。
だが、殺せば、その王を慕う兵たちを敵に回す。
今のヴァルネアに、その軍を迎え撃つ余力はない。
あちらから届く報告は、どれも芳しくなかった。
戦費で疲弊した国庫。責任を押しつけ合う貴族。王命に従わなくなりつつある地方。
国の内側を立て直し、再び軍を動かせるようになるまでには、少なくとも二年は必要だろう。
暗殺を企てるなら、まずはその準備を整えてから。
それまでは花嫁に信用を得させ、王の習慣や警備を調べさせる。定期的に報告を受け、時機を待つ。
おそらく、そんなところだ。
もちろん、相手が常に理にかなった判断をするとは限らない。
だから、念のため、講和の条件にも一文を加えておいた。
王妃と行動を共にしている間に国王が死亡した場合、別に明確な犯人がいると認められる場合を除き、王妃による加害とみなす。その責任は、王妃を送り出したヴァルネア王国が負う。
無茶な条件だと、向こうの使者は抗議した。
事故も急病もあり得るではないか、と。
ごもっともだ。
だが、こちらが譲らなければ、最後には飲んだ。
国境を越えて攻め込まれるよりは、ましだと考えたのだろう。
「あの娘には、どこまで知らせているのやら」
軍備が整うまでは手を出すな。
それまでは妻として信用を得ておけ。
せいぜい、その程度かもしれない。
「もう、ほだされかけているんじゃないか」
今朝、アルベルトの前でアデリアが見せた笑顔を思い出す。
敵として送り込まれた娘が、妻として扱われる。
アルベルトの性格を考えると、失敗を責めず、不安を気遣い、明日も隣にいてほしいと望むだろう。
それを毎日続けられるのだ。
「あの人たらしを、二年も相手にするわけだ」
本人には、誰かを籠絡しているつもりなどない。
迎えた妻だから大切にする。泣いていれば心配する。喜んでいれば、自分もうれしくなる。
だから、厄介なのだ。
王の隣に送り込まれたあの娘は、チェスで言うならさしずめポーンか。
送り込んだ側にとっては、使い捨てても構わない一兵卒。
だが、こちらにとっても価値が低いとは限らない。
この駒が、自らの意思でこちらにつけば。
敵が思っている以上に、大きく形勢が変わる。
もちろん、そう簡単に裏切るとは限らない。
組織への忠誠があるのかもしれない。逆らえばどうなるか、骨の髄まで教え込まれているのかもしれない。
だが、時間はある。
黒百合に従って生き延びる道しか知らないのなら、それ以外の道を、毎日目の前に置いてやればいい。
ここに残りたいと思う理由を、増やしてやればいい。
「そのまま、本当にアルベルトを愛してしまえばいい」
残っていたワインを飲み干し、窓辺の小卓へ杯を置く。
「存分に、大切にされてくれ。暗殺者殿」
決断のときが来たとき、あの娘は母国とアルベルトのどちらを選ぶのか。
その答えが楽しみだ。




