不気味な男
城の案内をすると言ったくせに、ローデリクは廊下の絵画にも、窓の外の庭園にも目を向けなかった。
階段を上り、廊下を曲がり、また階段を上る。途中から、すれ違う人の姿もなくなった。
最後の扉を抜けたところで、風が頬をなでた。
城の屋上だった。
石造りの胸壁の向こうに、城下の屋根が広がっている。遠くには城壁と、その先に続く街道が見えた。眺めはいい。眺めだけなら。
「屋上はいいでしょう。密室で二人きりとなると、さすがにご不安になるかと思い、こちらを選んでみました」
ローデリクが背後の扉を閉めた。
いやいや。不安という意味なら、あまり変わらない。
人のいないところでしたい話がある。つまり、ほかの人には聞かせられない、不穏な話があるということではないか。
まさか殺される……なんてことはないわよね?
景色を眺めるふりをして、さりげなく周囲へ目を走らせる。今しがた彼が閉めた扉のほかに、出入りできる場所はないだろうか。
しかし残念ながら、目につく範囲には別の扉も、下へ続く階段も見当たらなかった。
「城のご案内ではなかったのですか?」
こんな人気のない場所へ連れてくるとは聞いていない、という不満を、少しだけ声ににじませる。
「こちらからでも城の案内はできますよ? ほら、城の敷地がよく見渡せます」
ローデリクが、壁の向こうに広がる庭園を指さした。
私は促されるまま近づき、庭を見下ろすついでに、真下へも目を走らせた。
二階分ほど下に、飛び移れそうな屋根が張り出している。あのくらいの高さから飛び降りる訓練なら、受けたことがある。
もし、万が一のことがあったら、そこへ――。
「ご熱心ですね」
「何がでしょう」
「ここに来てから、ずいぶん周囲をご覧になっている」
どきりとしたが、私は庭へ視線を戻した。
「初めて来た場所ですもの。珍しくて」
「庭園よりも、下の階や通用口の方にご興味がおありなんでしょうね」
バレてるじゃないの! 言われてみると不自然な視線の動きをしてしまっていたと自分でも思う。
頬が引きつりそうになるのをこらえ、私は何でもないように微笑んだ。
景色へ目を向けるふりをして、ローデリクとの距離を少し広げる。
「宰相様は、お忙しいのでは? 陛下には、あれほどお仕事を急がせていらしたのに」
「忙しいですよ。ですが、こちらも大事な仕事です」
「私の案内が?」
「王妃様がどのような方か、知ることが」
ローデリクは薄笑いを浮かべながらこちらへ向き直り、眼鏡を押し上げる。
「セラフィーナを懐柔したことは、興味深い」
「懐柔したつもりはございません。お話しして、互いに誤解が解けただけです」
「まぁ、そういうことにしておきましょう」
私の意識としても懐柔したつもりだったが、表面上でも否定しておかないとまずい。
「それなりに優秀で、それなりに良心がある。そんな方が来てくれればいいと、俺は願っていたんですよ」
風に流された黒髪を、彼は無造作に肩の後ろへ払った。
「その二つを兼ね備えた方というのは、案外少ないので」
「優秀と評価していただけるかはわかりませんが、王妃としての務めはしっかりと果たすつもりで参りました」
ひとまず、無難な返事をしておく。
けれどローデリクは、こちらをあざ笑うように口の端を持ち上げた。
「いえ、そういうことではなくて、こういうことですよ」
懐へ入れた手が、小ぶりなナイフを取り出した。
彼はその刃を、私によく見えるように顔の横へ掲げる。磨かれた刃先が、陽の光を受けて白く光った。
やっぱり殺そうとしている!?
「このナイフで、今からあなたの喉をかき切ります。そう言ったら、王妃様はどうなさるのかなと」
どうすればいいの?
これ、明らかに疑われている。
どこまで? 本物のアデリアではないということ? それとも全部?
混乱する私をよそに、ローデリクはナイフの柄をくるりと回した。私の顔を眺めながら、また一度。まるで返事を待つ間の手遊びのようにナイフをもてあそび、ゆっくりと近づいてくる。
私は後ずさりそうになる足を踏みとどめた。
落ち着いて考えるのよ。
偽物のアデリアだと確信しているのでなければ、たぶん本当に切ったりはしない。寸前で止めるはずだ。だから、首にナイフを当てられても、とぼけ通すのが正解。
でも、この男には、何をするかわからない得体の知れなさがある。
私は彼の顔から視線を下げ、上着に包まれた肩や腕を素早く確かめた。
傭兵稼業が盛んで強さを重視するアルディスの男性にしては珍しく、あまり筋肉はついていないように見える。しかも、今ここには誰もいない。ナイフを奪って逆に制圧し、下の屋根へ飛び降りて逃げるという選択肢も――。
いや、その先は?
敵の城のど真ん中から逃げるのは、さすがに無理がある。たとえ外へ出られても、計画を台無しにした責任を取れと、黒百合からも追われるはずだ。
逃げることはできない。ローデリクを止める方法も、今は思いつかない。
じゃあ、もう祈るしかないね。
そう決意して、私は静かに目を閉じた。
「それが、アルディス王国の選択、アルベルト様のご意思でしたら、どうぞ」
足音が、目の前で止まった。
首筋に、冷たいものが触れる。
喉が動きそうになったのを、必死でこらえた。手を上げても、身を引いてもいけない。
目を閉じているから、相手の顔は見えない。
けれど、きっと今も、あの気味の悪い笑みを浮かべているのだろう。人の首に刃物を当てて、反応を楽しんでいるに違いない。
風が頬をなでていく。
まだ、切られていない。
もう十分長く待った気がするのに、冷たい感触は、それ以上動かなかった。
……やっぱり、本当に切る気はなかったんだ。
「失礼いたしました。王妃様のご覚悟は素晴らしい」
目を開けると、予想どおり、ローデリクは気味の悪い笑みを浮かべていた。
「俺の体を見て、勝てるかどうか一瞬お考えになったのも、実に素晴らしい」
ようやく、首元からナイフが離れる。
息を吐きそうになったが、まだ我慢した。
「俺は武術にはまったく興味がありません。王妃様――というか、暗殺者様が本気を出せば、勝てる可能性もあったでしょう。ですが、その後の逃走まで考えて思いとどまったのは、正解です」
怖いくらい、全部バレている。
でも、ここで認めるわけにはいかない。最後まで、とぼけきってみせる。
「暗殺者様とは、何のことでしょうか?」
「悪名高きヴァルネア王国が、素直に王女を差し出すとは限りません。花嫁の代わりに、国王を殺すための人間を送り込む。考えておくべき可能性のひとつです。黒百合、という暗殺組織を抱える国ならなおさらね」
黒百合の存在までバレている。考えれば考えるほど冷や汗が止まらなくなる。
「密偵を送り込んでいるのがそちらだけだなんて、まさかお考えではないですよね?」
正論すぎるよ。でも待って、冷静に。カマをかけているだけかもしれない。
私は慎重に無難な言葉をひねり出した。
「そこまで疑っているのなら、どうして結婚を認めたのですか?」
「別に、あなたが王女でなくても構わないのです。俺は、ね」
意味がわからない。
王女でなくても構わないなんて、あるわけがないでしょう。
少なくとも、ほかの重臣まで同じように考えるとは思えない。この男の独断に、いったいどこまで影響力があるのか。
それに、その前に言っておきたいことがある。
「本当に切るつもりはなかったと、私も理解しております。しかし、あまりにも無礼ではありませんか?」
「王妃様は不慮の事故でお怪我をされた。その際の混乱で、宰相に傷つけられたと誤解なさっている。そう説明すればよいでしょう」
私はローデリクの顔を見た。
冗談を言っている顔ではなかった。
「そんな説明が通ると、本気で思ってらっしゃるの?」
「十分ご理解なさっていると思いますが、今回の講和は、あなた方の国にとって不利な条件で結ばれています」
彼の声から、薄い笑いが消えた。
「こちらには、まだ戦う余力があった。侵入した軍を押し戻し、そのままヴァルネアへ攻め込もうとしたところで、講和を申し入れてきたのはそちらです」
もちろん、知っている。
和平と呼んでいても、実質的な勝ち負けはある。今回、王女を差し出さなければならなかったのが、どちらの国なのか。それだけでも、力関係は十分わかる。
「王妃様の怪我について、ヴァルネア王国が抗議するのは自由です。ですが、そのために講和を白紙に戻す覚悟があるかとなると、別でしょう」
つまり、傷つけても押し切れると思っているわけだ。
考え方が大胆すぎる。
ここまで大胆にやられたら、勝てる気がしない。
おとなしく従っておくしか……。
「アルディス王国の宰相様は、普通ではないようですね」
「それはどうも。俺にとっては褒め言葉です」
「褒めてはいませんが……。それで、宰相様にとっては私は暗殺者なのですよね。ここまで疑われている私は、どうすればいいのですか? 軟禁でしょうか?」
「何も。今までどおり、生活していただければいいのです」
「……え?」
今までどおり。
王女のふりをして、王妃として暮らしていろということ?
「うちの陛下は、愛情あふれるいい男でしょう?」
不意に、アルベルト様の顔が浮かんだ。
セラフィーナの赤い目を見て、心配そうにしていた顔。私たちが仲よくなったと知って、ほっと笑った顔。
夜にゆっくり話そうと、そう言っていた。
なぜ今、それを思い出させるの。
ローデリクは、私の表情を確かめるように、ゆっくりと言った。
「暗殺者殿には、その愛をたっぷりと堪能していただきたいのです」
なにそれ? 全くさっぱり意味がわからない!




