陛下の心の中
結婚式が終わると、私は侍女たちに連れられ、隅々まで磨き上げられた。
湯に浸かり、髪を洗われ、肌に香油を塗られる。耳の後ろにまで念入りに塗られていて、貴族はここまでするのかと感心した。
数時間に及ぶ準備の末にようやく解放された私を待っていたのは、薄い夜着と、広すぎる寝室だった。
部屋の奥には、天蓋つきの大きなベッドがある。
枕は二つ。
……数えなければよかった。
私はベッドからなるべく離れたソファに腰を下ろし、膝の上で両手を握りしめた。
大丈夫。落ち着いて。必要なことは全部教わったはず。
背筋を伸ばす。顎を引く。微笑む。
自然に息をする。
最後のが、いちばん難しい。
ガチャッ。
扉が開いた瞬間、私は勢いよく立ち上がった。
「お疲れさまでございます、陛下!」
深々と頭を下げてから、はっとする。
違う。私は今日から妻だった。これでは、ご主人様の帰りを待っていた侍女だ。
入ってきたアルベルト様が、わずかに目を丸くする。
「ありがとう。君も疲れただろう。座っていて 」
優しく促され、私はおずおずと顔を上げた。
危ない危ない。さっそくやらかしてしまった。
けれど、彼は気にした様子もなく、後ろからやって来た侍女から盆を受け取った。載っているのは、ティーポットと二客のカップだ。
「もう下がっていいよ。あとは僕が」
侍女が一礼して退出し、扉が閉まる。
二人きりになった。
その事実に再び息が詰まりかけたところで、アルベルト様が盆をテーブルに置いた。
「少し、お茶に付き合ってくれる?」
「は、はい。では、私が」
反射的にポットへ手を伸ばす。
自分より身分の高い人がお茶を淹れようとしたらどうするのが正解なのか。そんな細かいところまではたった3か月の特訓では教えてもらえなかった。生粋の貴族なら教わるまでもないことかもしれないけど――。
「もう少し蒸らしてから」
取っ手に触れる寸前、穏やかな声に止められた。
私の手が宙で固まる。
アルベルト様はそれを見て、ふっと笑った。
「焦らなくていいよ。どうぞ座って。お茶を淹れるくらい、なんてことないから」
「ですが……」
「僕が飲みたくて持ってきたんだ。君には付き合ってもらうのだから、これくらいはさせてほしいな」
そんなふうに言われたら、座るしかない。
私はおそるおそるソファへ戻った。
なんていい人なのだろう。
先ほどの式では凛々しい姿を見せていた人が、今は向かいで、茶葉の蒸らし時間を気にしている。
「お優しいのですね。その……もっと怖い方かと思っていました」
彼の手が止まった。
しまった。
あまりに穏やかな空気だったせいで、本音がそのまま口から出た!
「も、申し訳ありません。今のは、その」
「いや。そう思われるのも無理はないよ」
アルベルト様は、少し困ったように笑った。
「肖像画なんかは、そう見えるように描いてあるからね。少し顎を上げて、眉間に力を入れて。画家には何度も、笑わないでくださいと言われたよ」
思い浮かんだのは、嫁ぐ前に見せられた肖像画だった。
射貫くような眼差し。固く結ばれた唇。
あれが、笑うのを我慢した結果だったなんて。
「実物は期待外れだったかな」
「とんでもありません!」
即答すると、彼は楽しそうにポットを持ち上げた。
カップへ注がれたお茶から、やわらかな湯気が立つ。
「はい。熱いから気をつけて」
「ありがとうございます……」
「思ったことは、なんでも言ってよ。夫婦になったのだから」
なんでも。
それは、ずいぶん危険なお言葉ではないだろうか。
ここで微笑むだけにとどめるのが貴族の女というものだ。分かっている。三か月の特訓で、そう教わった。
でも、私は貴族の女じゃない。
思ったことを言い合って、くだらないことで一緒に笑う。結婚するなら、そんな夫婦になりたいと、ひそかに憧れていた。
偽りの結婚なのに。この人となら、そうなれるかもしれないと、つい願ってしまった。
「本当によろしいのでしょうか……?」
「うん」
アルベルト様はカップを置き、私の言葉を待つように微笑んだ。
聞いてから後悔しても遅い。けれど、せっかくそう言ってくれたのだから。
私は思い切って口を開いた。
「それで大丈夫なのかなと、心配になりまして」
アルベルト様が首を傾げる。
「国王というのは、時には逆らう者を見せしめに処刑するような……そういう非情さで、国を引き締めるものなのではありませんか?」
口にしてから、質問が無礼すぎた気がしてきた。
優しいですね、の次に、処刑しなくていいんですか、はないでしょう、私。
けれど、ヴァルネア王国で育てば、そんな疑問も浮かぶ。
あの国の歴代国王は、冷血で知られていた。
反乱を起こした貴族の妻が助命を願い出たときには、「夫と離れたくないのか」と尋ね、うなずいた彼女も一緒に処刑した。
飢饉の年、重税に抗議する民が城門に集まったときには、代表者を食事に招き、その間に外の者たちを捕らえさせた。
横領の罪に問われた兄を救おうと、王妃が寝室の前で一晩中泣いていたときなど、翌朝、扉を開けてこう告げたそうだ。
――もう泣くな。今朝、済ませた。
そんな話を聞いて育ったのだ。
国王を怖がるなというほうが、無理である。
アルベルト様は、すぐには答えなかった。
カップを受け皿に戻し、少し考えてから、慎重に口を開く。
「そういう厳しさが必要なときも、あると思う。国が危機に瀕していれば、誰も傷つけずに済ませることはできないかもしれない」
その声に、先ほどまでの笑みはなかった。
「でも、今のアルディスには、まだ余裕がある。その余裕を使って、臣下も、国民も、一人ずつ大事にしていきたいんだ」
私は、カップを持ったまま彼を見つめた。
「恐ろしいから従うのではなく、この国を支えたいと思ってもらえたら、そのほうがいいだろう?」
……後光。
燭台の位置の問題かもしれないけれど、今、この人の後ろに後光が見える。
まぶしさに圧倒されていると、アルベルト様が少し気まずそうに頬をかいた。
「なんて、偉そうなことを言ったけれど。僕がそうしていられるのは、いとこのローデリクが優秀だからなんだ。宰相として、ずいぶん支えてもらっている」
照れている。
国の未来についてあんなに立派に語っておいて、今、照れている。
怖くないだけでも驚いたのに、かわいいところまであるなんて、聞いていない。
「いえ、陛下も大変素晴らしい方です!」
私はカップを置き、思わず彼の手を取った。
握った手は、思っていたよりも硬かった。指の付け根に、剣を握る者特有のたこがある。
戦場で「軍神」と恐れられているという噂は、本当なのだろう。
でも、今こうして私を気遣ってくださる姿も、きっとこの方の本当の姿なのだ。
「私は、こんな方と結婚できて幸せです!」
あ。
また、やってしまった。
いきなり手を握ったのはまずかったかもしれない。
けれど、アルベルト様は手を引かなかった。
驚いたように私を見て、それから、はにかむように笑う。
「そう言ってもらえて、うれしいよ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「僕も、君と少しずつ仲良くなりたい。政略結婚とはいえ、生涯を共にする人なのだから」
握っていた手から、力が抜けそうになった。
この人は、本気で言っている。
私と夫婦になろうとしているのだ。今日会ったばかりの、素性もよく知らない妻と。
――素性も知らない、どころではない。
私はアデリア王女ではない。
ティナという名の、暗殺組織の手駒だ。
この人に嫁いだのは、殺すため。
失敗して帰れば、殺されるのは私だ。任務を投げ出した者がどうなるかなんて、わざわざ確かめるまでもない。
だから、仕方がないと思っていた。
私だって死にたくない。生き延びるためには、この人に死んでもらうしかないのだと。
そのはずだったのに。
手のひらから伝わる温かさが、ひどく落ち着かなかった。
「アデリア」
呼ばれて、顔を上げる。
アルベルト様は、私の手にそっと自分の手を重ねた。
「慣れない場所で、疲れただろう」
「い、いえ。そんなことは」
「今夜は何もしないよ。だから……一緒のベッドで休んでくれるかな」
私は、彼を見つめた。
何もしない。
その言葉を理解するまで、少し時間がかかった。
初夜は、妻の務めだ。私の気持ちを尋ねる必要なんて、この人にはない。少なくとも、教えられた中にはそんな話はなかった。
それなのに、私の返事を待っている。
「もちろん、嫌なら――」
「嫌ではありません!」
慌てて声を上げると、彼が口を閉じた。
今度こそ少し落ち着こう。私は一度息を吸って、握ったままだった手を、ほんの少し握り返した。
「……もちろん、ご一緒させていただきます」
「ありがとう」
ほっとしたように、彼が笑った。
肖像画の威厳は、どこにもない。
ただ、妻に断られなくてうれしいのだと、見ているこちらにまで分かってしまう笑顔だった。
ただ一緒に寝るだけなのに。
そんなに喜ぶこと、ないでしょう。
胸が苦しくなって、私は目をそらした。
その顔は、反則だわ……。




