そんなの聞いてない
高い天井に、厳かな鐘の音が響いていた。
色硝子の窓から差し込む光が、大理石の床を赤や青に染めている。祭壇には白い花が飾られ、その前に並ぶ私たち新郎新婦を、参列者たちが静かに見守っていた。
花嫁となった私の顔を覆う薄いヴェールも、窓からの光を受けて淡く輝いている。
「アルディス国王アルベルト、ヴァルネア王国第一王女アデリア。あなたがたは互いを伴侶とし、健やかなるときも、病めるときも、生涯をともに歩み、永遠の愛を誓いますか?」
祭壇の向こうで、神父様がこちらを見つめた。
アルディス王国とヴァルネア王国は、国境を接する隣国同士。つい先日まで戦争状態にあった両国の和平を、この結婚で確かなものにする――ということになっている。
私は膝が震えないよう、足に力を込めた。指先まで覆う白い手袋の下で、じっとりと汗をかいている。これまでそれなりに修羅場はくぐってきたつもりだけど、今日はぶっちぎりで人生一番の大舞台だ。
少しテンポが遅れてしまい、神父様がけげんそうにこちらを見ている。
「……誓います」
声は、教わったとおりに出た。
高すぎず、低すぎず。大勢の前で話すことに慣れていながら、花嫁らしい初々しさも失わない、ヴァルネア第一王女アデリアの声。
神様の前で嘘をつくのは、さすがに心苦しい。
ごめんなさい、神様。神父様。そして、旦那様。
全部、嘘なんです。
私はアデリア王女ではありません。暗殺組織「黒百合」で育った、ティナという庶民です。
永遠の愛も誓えません。
だって、夫となるアルベルト様を殺すのが、今回の任務だから。
私は、ちらりと隣の彼を見上げた。
すっきりと通った鼻筋に、形のよい唇。整った眉の下には澄んだ瞳があり、間近で見ると、ますます非の打ちどころがなかった。
「誓います!」
アルベルト様は一呼吸おいてから、よく通る声でそう言った。
まっすぐに神父様を見据えた、ためらいのない返事だった。
なんて潔いお返事。
こっちは神様への言い訳で頭がいっぱいなのに。
しかも、お顔まで申し分ない。
周辺国にまで評判が届く美貌、と聞かされてはいた。
どうせお世辞も混じっているのだろうと思っていたけれど、訂正したい。噂を広めた人々は、きっと言葉を尽くしていたのだ。
アルベルト様はこんなにお美しいのに、「軍神」と呼ばれる人物でもある。
戦場では自ら兵を率い、鬼気迫る戦いぶりで敵を打ち破るという。
アルディスは土地があまり農業に向かず、代わりに傭兵稼業が盛んになった国だ。それゆえ王にも強さが求められるのだと聞いたことがある。
正面から戦っても勝てない。だからヴァルネアは、婚姻で和平を結ぶふりをして、花嫁の代わりに暗殺者を送り込むことにした。
なかなか卑怯な作戦だと思う。
しかも、その暗殺者が貴族教育なんて受けていない私なのだから、無茶にもほどがある。
運悪く、黒百合の手駒の中で王女と背丈も髪色も似ているのは私だけだった。王女の髪は、白に近い淡い金色だ。明るい髪を暗く染めることはできても、その逆は難しい。
黒百合では幼いうちに容姿で役割を振り分けられる。華のある子は貴族として潜入するための教育を受け、そのほかの子は侍女役などを担当する。かしずく訓練は受けても、かしずかれる訓練など受けていない。
王女らしい振る舞いは、婚姻が決まってからの三か月で詰め込んだ付け焼き刃だ。気を抜けば、侍女より先にお茶を注ぎそうになる。
そのうえ、隙を見て殺せば終わり、という仕事でもなかった。
――我が国の軍備が整うまでは手を出すな。それまでは妻として信用を得て、いつでも殺せるよう備えておけ。
つまり、それまでずっと王女のふりをしろと?
三か月で覚えた礼儀作法を頼りに?
条件が悪すぎる。
侍女として潜入するのであれば多少の自信はあったけれど、王女としてなら、鍛冶屋に前線で剣を振らせるようなもの。
けれど、黒百合の命令に「無理です」と答える選択肢はなかった。
「それでは、誓いの口づけを」
神父様の言葉に、思考が止まった。
……口づけ。
そうだった。式の最後にそれがあったんだった!
手順は覚えている。何度も確認した。だから知っていたはずなのに、目の前に本人がいると、まるで話が違った。
アルベルト様が、こちらへ向き直る。
彼の手がヴェールの端に触れた。薄い布が静かに持ち上げられ、隔てるものがなくなる。
私は顎を上げたまま、動けなかった。
今朝、鏡に向かって仕上げた顔に、不備はないはずだ。
美人と名高い本物のアデリアに似せるため、目元も輪郭も念入りに整えてある。けれど、化粧を落としてしまえば、そこにいるのは地味だと言われて侍女役にしかなれなかった庶民の女だ。
人混みに入れば目立たないし、一度会ったくらいでは顔も覚えられない。仕事をするには、なかなか便利な顔だった。だけど、アルベルト様のような美形を前にすると釣り合っていない申し訳なさが勝ってしまう。
こんな私とキスなんてさせちゃって、ごめんなさい!
胸の内で謝る間にも、彼の美しい顔が近づいてくる。
どこを見ればいいのか、わからない。
目だろうか。口だろうか。
口を見るのは、何だかいけない気がする。
ああ、もう。なんとでもなれ!
私はぎゅっと目をつぶった。
唇を引き結び、息まで止める。
けれど、予想していた接触は、すぐには訪れなかった。
「……大丈夫だよ」
そっと落とされた声が、耳に届いた。
柔らかな声だった。
先ほどの誓いの言葉とは違う。広い聖堂に響かせるためではなく、私一人に聞かせるような、小さな声。
その優しい声色に緊張の糸が緩んでしまった。
そのとき、唇に温かいものが触れた。
ほんの一瞬だった。
驚く暇もなく離れてしまったから、本当に触れたのか、自信がなくなってしまうくらい。
私はおそるおそる目を開けた。
すぐ近くで、アルベルト様がこちらを見つめていた。
怯えた花嫁を案じるような、優しい眼差しだった。
彼は、固くなっていた私をからかうこともなく、安心させるように小さく微笑んだ。聖堂に拍手が広がった。
祝福の声が重なり、再び鐘が鳴り始める。
アルベルト様が差し出した手に、私は自分の手を重ねた。
手袋越しに、しっかりと支えられる。
祭壇を下りる段になって、彼は歩調を緩めた。長い裾を確かめてから、私が足を運ぶのを待っている。
その横顔を、私はそっと見上げた。視線に気づいたアルベルト様は、もう少しだけ歩調を緩めた。
任務のために覚えた肖像画では、唇を固く引き結び、威厳に満ちた眼差しをこちらへ向けていた。目の前の彼が浮かべるような穏やかな表情は、そこには描かれていなかった。
冷酷で、恐ろしくて、敵には一切容赦しない王。
そういう人のほうが、迷いなく任務を遂行できた。
握られた手を見下ろす。
これから自分が何をするつもりなのかを思い出すと、胸のあたりが妙に落ち着かなくなった。
……待って。
できるかどうかはともかく、仕事だと割り切るつもりだったのに。
こんなにいい人っぽいなんて、聞いてないよ!




