第9話:暗夜の影法師、咆吼の獣
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夜の帳が降りたノルズ港の外縁。
月明かりすら届かない漆黒の路上を、ラグナ――いや、今は『ロック』を名乗る少年は、防刃コートの裾を揺らしながら闇に潜むように移動していた。
(裏の掃除屋、か……)
胸の奥に不快で苦い自嘲が沸き立つ。かつて自分や両親を狙い、理不尽に命を奪おうとした刺客(暗殺者)と同類の仕事に、今や自分自身が身を投じている。
だが、ラグナはすぐに赤い瞳を冷たく研ぎ澄ませた。
(だけど……これでいい。このドロドロとした闇の世界の底を這いずっていれば、いつか両親を殺した黒幕や刺客の足取りに必ず辿り着けるはずだ)
歩みを進めながら、ラグナは己の体内で蠢く死霊術の「ストック」に意識を向けた。
背後に待機させている不可視の『霊禍』の制限時間は、あと数時間と迫っている。さらに、体内に保管しているヴァーグ・エイプの魂も、召喚中の『霊禍』ほど激しくはないものの、時の経過とともに少しずつ霧散し、消えかけていた。
(魂は長期保存が効かない。常に新しい獲物を狩り続けなければ、ストックは枯渇する……)
静かな焦燥感を抱えながら、ラグナはノルズ港から少し離れた岩山へ差し掛かった。標的――ヘカテの多額の借金を踏み倒して逃亡中の男が潜む洞窟だ。
周囲を警戒しながら岩陰を潜り抜けていく。だが、洞窟の入口に近づいたその時――。
「ひぐっ……あ、ああああああっ――!?」
洞窟の奥から、絶叫に近い男の悲鳴が夜の静寂を切り裂いて響き渡った。
(悲鳴……!? 同業者に先を越されたか?)
ラグナは素早く右腰のホルスターから最新鋭の単発式拳銃を抜き放ち、排莢と装填の感触を指先で確かめると、入口付近の岩陰に身を滑り込ませた。
直後、洞窟の中からドタバタと狂乱した足音が近づいてくる。
現れたのは、全身血みどろになった男だった。男は足をもつれさせながら数歩這い出し、地面に激しく突伏すると、そのままピクリとも動かなくなった。
(奥に『何か』がいる……!)
ラグナは即座に背後の『霊禍』の不可視化を解除した。蒼黒い死霊精霊を前方に旋回させ、前衛として配置した。実体弾である自分の銃弾は『霊禍』の体をすり抜けるため、この配置は牽制としても自らの遠距離戦としても極めて都合が良い。
息を殺して倒れた男を観察する。……暗闇の中でよく見ると、男の片腕が根元から凄惨に食いちぎられていた。刃物による切断ではない。巨大な顎と牙で強引に噛み砕かれた痕跡。
(人間の仕業じゃない……魔物か!)
次の瞬間、『霊禍』の発する禍々しい死の気配に反応し、洞窟の奥の暗がりから「それ」がゆっくりと姿を現した。
低く重厚な足音とともに踏み出してきたのは、体長3メートルを超える巨大な獅子の魔獣――『ネメア・レオン』。
その凶悪な顎からは、削ぎ落とされた人間の生血がダラダラと滴り落ち、地面の岩を赤く染めている。首回りを覆う重厚な鬣にもべっとりと血肉がへばりつき、凄惨な肉食獣の威容を誇っていた。
(ネメア・レオン……! 確か1頭で人間より身体能力の高い獣人の里を一夜で全滅させた伝承があるはずだ。なぜこんな港街の近くに……!)
疑問が脳裏をよぎるが、ラグナは即座に思考を切り替えた。
(考えるのは後だ。今の窮地を脱するのが先……!)
ネメア・レオンは殺気をみなぎらせ、前方に立ち塞がる『霊禍』に向かって「ルァアアアッ……!」と低く地響きのような威嚇を放つ。
(『霊禍』を警戒して隙ができている……今だ!)
ラグナは片腕を喰いちぎられて倒れている標的の死体へ意識を向け、『屍鬼召喚』の発動を試みた。……しかし、いくら待っても男の魂が体内に吸収されてこない。
(ボク自身が直接命を奪った相手じゃないと、魂は吸収できないのか……?)
ならばと、ラグナは体内で消えかけているヴァーグ・エイプの魂を死体へ無理やり注入し、起動させようと試みた。だが――ガツンッ、と強烈な反発が起き、魂は死体から弾き飛ばされた。
(ダメだ、拒絶される……! 他者の魂を別の肉体へ入れることはできない。つまり『屍鬼召喚』は魂と身体が同一の存在でなければ使用できないのか!)
術の明確な法則を理解した瞬間、ラグナの脳裏に鋭い矛盾が突き刺さる。
(……待てよ? なら……なぜあの時、ボク自身が殺したわけでもない『両親の遺体』で使えたんだ……!?)
底知れぬ疑問。だが、思考を深掘りする猶予は与えられなかった。死体からの起動を諦め、『霊禍』を主軸に仕留める戦術へ切り替えたその瞬間――ネメア・レオンの野性が爆発した。
――ガルルァッ!
音もなく、弾丸のような推進力で襲いかかってくる巨躯。
咄嗟に『霊禍』を迎撃に向かわせるが、魔獣は空中であり得ない軌道修正を行い、『霊禍』の爪を華麗に回避した。
(速い……ッ!)
肉薄してくる魔獣の頭部へ、ラグナは『肉体強化』の魔法を練り上げる余裕もないまま、無我夢中で単発式拳銃の銃口を向け、引き金を引いた。
――ダンッ!
激しい破砕音。しかし、銃口が合わさった瞬間、魔獣は野生の絶望的な危機察知能力で斜め後ろへ跳躍し、弾丸を完全に回避してみせた。
それと同時に、肉体強化を行わないまま放たれた拳銃の凄まじい反動と衝撃がダイレクトにラグナの腕を突き抜け、小柄な身体が「くっ……!」と後方へ一歩、二歩と不格好にふらつく。
(弾丸すら見切るのか……!? それに、魔法なしじゃ手首を負傷する……!)
急いで『霊禍』を自分と魔獣の間に割り込ませ、間一髪で間合いを詰めるのを防ぐ。数々の死線を潜り抜けてきたラグナだったが、今まで対峙してきた敵とは次元が違う猛威に冷汗が頬を伝う。
単発式の銃ゆえに、次弾を撃つには排莢して弾を込め直す隙ができる。かといって『霊禍』の俊敏さでは、この魔獣の速度に追いつけない。
(覚悟を決めて、勝負に出る……!)
ラグナは同時に複数の行動を開始した。
銃のレバーを操作して薬莢を排出(排莢)。
左手で胸ポケットから錬金術の小瓶を取り出す。
同時に『霊禍』へ怒涛の追撃を命じ、体内で消えかけていたヴァーグ・エイプの魂を絞り出して、頭部だけが青い炎に包まれた『死霊召喚』を発動させた。
その瞬間、ドクンッと頭蓋の奥が激しく脈打ち、ヴァーグ・エイプの死に際の憎悪と呪詛の念が怒涛の奔流となってラグナの意識へ流れ込んできた。
(くっ……! 黙れ……ッ!)
戦闘の真っ只中。ラグナは歯を食いしばり、脳を掻き乱す怨念の悲鳴を強靭な意志力で強引に抑え込み、正気を繋ぎ止める。
『霊禍』と『死霊』が挟み撃ちで襲いかかり、魔獣の注意を釘付けにしたその一瞬。
ラグナは小瓶の蓋を指で弾き飛ばし、足元へ中身の試薬をぶちまけた。空気に触れた液体が一瞬で猛烈な催涙ガスへと変化し、周囲へ充満していく。
熱風とともに――ラグナ本来の適性である『風魔法』を発動させた。
微弱で優しい風が、『霊禍』と『死霊』の体をすり抜け、充満した催涙ガスを魔獣の鼻先へ正確に運び去る。
「グル……ッ!? ガ、アァアアッ!?」
嗅覚が人間の何倍も優れた魔獣にとって、鼻と目を直接灼く催涙ガスは耐え難い劇薬だった。魔獣は顔を振り乱し、狂乱しながら苦しみ出す。俊敏性は劇的に落ちたが、それでも野生の執念でかろうじて『霊禍』たちの猛攻を回避し続けていた。
ラグナは冷酷に目を細め、召喚物たちへ命じた。
「――爆ぜろ」
自爆指示。
『霊禍』と『死霊』が同時に霧散し、凝縮された怨念の衝撃波となって魔獣の脳と内臓を苛んだ。物理的な破壊ではない、呪詛の爆破。
「グガァッ……!?」
魔獣が激痛で身体を折り曲げ、完全に動きを止める。
ラグナはガンベルトから迅速に新しい金属薬莢を抜き取り、銃身へ装填した。今度はしっかりと身体へ『肉体強化』の魔法をかけ、反動を完全に殺す射撃姿勢を固定した。
静かに銃口を魔獣の脳天へ向ける。
「終わりだ」
――ダンッ!!
破裂音が洞窟の壁面に響き渡った。
貫かれた頭部から大量の血を吹き出し、ネメア・レオンの巨躯は地響きを立てて崩れ落ち、沈黙した。
「ハァ……ハァ……っ」
総力戦だった。ラグナは素早く排莢して次弾を装填し、周囲の警戒を怠らない。
すると、横たわるネメア・レオンの巨体から、今まで見たこともないほど巨大で眩い蒼い燐光(魂)が立ち上り、一気にラグナの体内へと吸い込まれていった。
(……すごい魔力だ。自分で息の根を止めたから、魂が手に入った……!)
自身で殺害したことで魂と肉体が一致し、適合した。ラグナは莫大な魔力となじむ魂を使い、倒れたネメア・レオンの死体へ『屍鬼召喚』を発動させた。
――ズズズッ……!!
術の行使に伴い、死霊術のバックラッシュがラグナの肉体と精神を襲う。強烈な負荷と、魔獣が死の間際に抱いた苦痛と怨念の念が意識へとなだれ込んできた。ラグナは気を引き締め、眉根を寄せてその過負荷をじっと耐え抜く。
(……っ、耐えろ……! だけど、これは……)
脳裏を灼く呪詛に耐えながら、ラグナはある事実に思い至る。
人間を死霊化させた時に比べると、精神へかかる負荷が明らかに小さかったのだ。
(知能が低い存在の方が、行使した時の負荷が少ない……? 人間と違って言葉を持たず、何を言っているのか理解できないからか……。魔獣であっても苦痛や怨念の波はそれなりにあるけれど、人間の魂を扱う時に比べればずっとマシだ)
グラリと血みどろの巨獣が起き上がる。死してなお圧倒的な存在感を放つ『ネメア・レオンの屍鬼』が誕生した。
「よし……」
男の遺体からは目的の「違法錬金術の材料」が見つからなかったため、ラグナは新しく手に入れた巨大な屍鬼を従え、男が何かを隠しているであろう洞窟の奥へと静かに足を踏み入れた。
その頃。
ラグナが洞窟の闇へと消えていく姿を、遙か離れた崖の上から静かに見下ろす【謎の人影】があった。
人影の手元には、一振りの短い刃が握られている。
かつて山中の廃鉱にて、ラグナの放った光に目が眩んだ女暗殺者の手からすっぽ抜け、岩の隙間に深く突き刺さったまま残されていた――あの短剣だ。
人影は岩から力任せに引き抜いたその短剣の刃を、月光にかざすようにそっと撫でる。
風が吹き抜け、人影のフードを不穏に揺らした。
その瞳は、暗闇の奥で白銀の髪の少年――『ロック』の背中を、不気味な確信とともに見つめ続けていた。
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