第8話:悪徳の庭園、黒き盟約
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昨夜までの鬱々とした雨が嘘のように晴れ渡り、雲ひとつない蒼穹から燦々と眩い陽光が降り注いでいた。
娼館『黒猫の戯れ』の中庭。色鮮やかな花々が咲き誇る白磁のテーブルで、ラグナは女主人のヘカテと向かい合って座っていた。
「食事の前に、右腕を見せてもらおうかしら?」
ティーカップに口をつけながら、ヘカテが妖艶な視線を向けてくる。
ラグナは無言で上着の袖を静かに捲り上げた。
「……素晴らしいわ」
ヘカテの指先が、細身の磁器や名画の額縁を愛でる美術鑑定士のように、滑らかにラグナの肌を辿る。傷の埋まり具合、皮膚の弾力、筋肉の収縮――それらを品定めするように見つめる目は、命を救われた患者を見るものではなく、極上の美術品の保存状態を確かめる目だった。
(……それにしても、驚いたな)
露わになった白い肌の右前腕。昨日まで重い骨折と痛々しい裂傷があったはずの場所には、引き千切られた痕すら残っていない。
(あの怪しげな闇医者、ガタガタ震えながらポーションを飲ませていただけかと思っていたけれど……街の教会の治療術師より遥かに腕が立つのかもしれない)
「あら……綺麗に治っているわね。若いって素晴らしいわ」
ヘカテが細い指先でラグナの右腕を優しく撫でる。その指の触れ方に、ラグナは微かな胸の悪さを覚えた。そこへ、トレイを抱えた小柄なメイドが給仕に現れる。
「お、お待たせいたしました……!朝食をお持ちしました……」
今朝、ラグナの至近距離で見とれていた大きな眼鏡のメイドだ。彼女は焼き立てのパンと湯気の立つスープを並べながら、チラチラとラグナの白銀髪と儚い美貌に夢中で熱い視線を送っていた。あからさまな恋心を隠しきれていない。
「……下がりなさい、マリア」
ヘカテの低く冷ややかな声が静寂を切り裂いた。優雅な笑みの裏に、冷酷なイラつきがはっきりと滲んでいる。
「あ……!は、はいっ!失礼いたしました……!」
名前を呼ばれたメイド――マリアは、顔を真っ赤にして恐縮し、深く頭を下げて逃げるように中庭から退出していった。
(マリア、か……)
去っていくメイドの後ろ姿を目で追いながら、ラグナは思考を巡らせる。どこにでもいるような普通の名前。だが、この欲望渦巻く『黒猫の戯れ』においては、その愚直な幼さがかえって異質に見えた。
食事を進めながら、ラグナは目の前に座るヘカテを静かに観察する。
(この女は、欲望という底なしの沼そのものだ。深みへハマれば骨まで溶かされる。だが……ボクに向けられているのは、明らかに『愛玩動物』に対する歪んだ庇護欲。……なら、その欲の深さすらも毒として利用してやる)
ラグナはすっと表情を陰らせ、右前腕を庇うように抱え込むと、儚く怯える少年の演技を被せた。
「あの……ヘカテさん。相談があるんだ」
「なぁに、ロック?」
「ボクを……ここで働かせてくれないかな。どこにも行くあてがないんだ」
上目遣いでヘカテを見つめ、濡れたような瞳で訴えかける。さらに声を低く落とし、彼女の耳元へ届くように甘く囁いた。
「願わくば……最初のお客さんは、あなたがいい」
勝負に出た。彼女の歪んだ好意と欲情を毒として塗り込み、自分へ依存させて懐柔するための毒針。
ヘカテは一瞬驚いたように目を丸くし、次いでうっとりと頬を緩めた。その恍惚とした表情を見て、ラグナは内心で確信した。
(勝った。この女を手玉に取れた――)
「……ふふ」
ヘカテの笑みが、ピタリと止まった。
うっとりとしていた顔から一瞬で熱が引き、一切の感情を削ぎ落とした氷のような声がラグナの耳孔を穿つ。
「ひとつだけ、確認させてちょうだい。――あなた、人を殺した経験があるわね」
「ッ……!?」
「それと……『ロック』なんて名前が偽名だということくらい、お見通しよ。でも安心しなさい、あなたの『本名』なんてどうでもいいの。興味もないわ」
冷や水を浴びせられた感覚。
油断も慢心もせず、冷徹に挑んだはずの心理戦。手玉に取っていたつもりが、最初から手のひらの上で転がされていたのは自分の方だった。ラグナは己の完全敗北を認めざるを得なかった。自分の浅知恵など容易く見抜く化け物が世の中にはいくらでもいる。――世界の広さと己の未熟さを、舌を噛むような思いで実感させられる。
次の瞬間、ラグナの『儚い少年』の仮面が完全に剥がれ落ちた。
全身から立ち上る凄絶な殺気。蒼白の肌に映える白銀の髪が不穏に揺れ、赤い瞳は凍てつく殺意を孕んだ猛禽のそれへと激変する。背後に待機させた不可視の『レイス』に意識を集中させ、いつでもこの女の首を引き千切れるよう臨戦態勢に入った。
「ッ……あぁ……っ!」
空気の一変を感じ取ったヘカテは、恐怖するどころか激しい吐息を漏らした。
頬を朱に染め、恍惚と胸を躍らせて身体を震わせる。
「そう、それ……!そっちの目のほうが、ずっとゾクゾクするわ……!」
完全に狂気だった。ラグナは殺意を極限まで高め、レイスを飛びかからせるか思案する。しかしヘカテは、発情期の雄をあやすかのようにクスクスと軽く微笑み、その猛烈な殺気をあっけらかんと受け流してみせた。
「そうカリカリしないで頂戴。私はあなたの敵ではなく、……共犯者になりたいの」
「……共犯者?」
「ええ。いい?あなたがどこへ逃げようと、精巧に『偽装した身分証』がなければ国境どころか街の簡単な検問すら突破できないわ。私がその手配をしてあげようっていうのよ。だから……『ロック』として生きなさい」
ヘカテはラグナの殺気混じりの瞳を愛おしそうに見つめる。
「あなたは食べ頃じゃないわ。もっと美味しく熟してもらうには……もっともっと、ドロリと汚れてもらわなきゃ」
「汚れる……?」
「そう。この『黒猫の戯れ』を経営していると、鬱陶しい害虫が絶えないのよ。……私の専属の『掃除屋』になってちょうだい」
ヘカテの言葉を聞いた瞬間、ラグナの脳内で妙な回路が繋がってしまった。
(汚れる……掃除屋……。……えっ?マリアたちがメイド服で雑巾がけしていたけど……ボクにあのフリフリの服を着せて、館の掃除をさせるつもりか……!?)
殺伐とした空気の中で、ラグナの表情が『メイド服を着せられるのか!?』という素の狼狽と困惑へと急転直下した。
その顔を見たヘカテは、一瞬の静寂の後――。
「くっ……ふふっ、あははははっ!」
テーブルを激しく叩いて爆笑した。
「カワイイ……!本当に最高ね、あなた!掃除屋は殺し屋って意味よ!」
「……っ」
弄ばれたことに気づき、ラグナは苦虫を噛み潰したような顔になる。
だが、仕切り直して冷徹に頭を回転させた。
(……今回の掛け合いはボクの完全敗北だ。だけど、結果として悪くない方向に転がりつつある。殺しの仕事ならターゲットの魂を正当に狩ってストックを増やせるし、偽装した身分証と裏社会に強い影響力を持つヘカテを後ろ盾にできれば、追手から身を隠しつつ自由な移動と物資が手に入る……!)
「……いいよ。その『掃除』、ボクが引き受ける」
「交渉成立ね、ロック」
ヘカテは満足そうに頷くと、席を立った。
「来なさい。まずは仕事の道具を揃えましょう」
――この会話を境に、少年の心の中に宿る『ラグナ』という無力な過去は静かに削ぎ落とされた。これより先、彼は自らを『ロック』として夜の暗闇へと足を踏み入れる。
案内されたのは、館の地下深くにある極秘の倉庫だった。
ほこりっぽい空気の中、違法な禁制品や借金のカタで押収された高価な品々が雑然と積み上がっている。
ヘカテは棚の奥から重厚な木箱を引き出し、蓋を開けた。
「人間の国で最も歴史が浅く、最新の技術と膨大な富を誇る民主主義国家――ヴァルハニア連合共和国の密輸品よ」
木箱の中に収められていたのは、異質な形状をした銃と、それに合った革製のホルスターだった。
現在、世界で出回っているのはドワーフの技術による『フリントロック式の単発銃』だが、連合共和国は密かにその遥か先を行く近代兵器を開発している。
「世の中にはまだ出回っていないプロトタイプよ。単発の中折れ式で、1発ごとに薬莢を排莢・装填する仕組みで、使い勝手と威力が跳ね上がっているわ」
持ち上げると、ズシリとした重厚な金属の質量が手に伝わる。
長い円筒形の銃身と、平らな面で構成された四角く硬質な金属の機関部を持つ単発式カスタム拳銃。直線的でシャープな鉄のボディに対し、持ち手には滑らかな曲線の木製グリップ。
レバーを引くと銃身が前方に折れ曲がって薬室が露出し、後部には大型の撃鉄が配置されている。
さらにロックは、錬金術の触媒となる薬草類と、暗闘用の衣装を選び取った。
白銀髪によく映える、深くつばの広い帽子と漆黒の防刃コート。まるで伝承に語られる闇の狩人のような、洗練された冷酷さを纏う姿へと変貌を遂げる。
倉庫の最奥、頑丈な鉄扉の先には無人の尋問部屋が存在していた。
湿った石壁に囲まれた空間の中央には、吊り下げられた大きな砂袋がひとつ。
ロックは無言で単発式拳銃を構えた。
金属の薬莢を装填し、重厚なハンマーを起こす。
――ダンッ!
破裂音が狭い石室に轟いた。
放たれた弾丸は砂袋の中央を容易く穿ち、激しい破砕音とともに大量の砂を撒き散らす。だが次の瞬間、想像以上の反動と激しい衝撃に耐えきれず、小柄なロックの身体は後方へ「っと……!」と不格好にふらついてしまった。
「あはは、反動が強すぎたかしら?」
「……ううん、大丈夫」
ロックは顔をしかめながらも、カチャンと手慣れた動作で排莢し、すかさず次弾を装填した。
『肉体強化』
魔法が全身の筋肉と骨格へ静かに付与させる。
本来、この強化魔法は近接戦闘を行う剣士などが筋力の強化に使用する。しかし身体が小さく非力で、基礎魔法の精度も高くなかった自分にとって、この術式はかつて実用性のない魔法に過ぎなかった。
……だが、銃の凄まじい反動をその場で殺し、射撃姿勢を固定する程度の用途であれば、今の自分にも十分に役立った。
2発目の射撃姿勢を作り、ハンマーを起こす。
――ダンッ!
(これなら……完全に制御できる)
満足気に頷くロック。
「標的は誰?」
ヘカテは帳簿を眺めながら答える。
「私から多額の借金をして逃げ回っている男よ。売れば借金を1回で返せる高価で危険な『違法錬金術の材料』を隠し持っているくせに、手放さずに抱え込んでいるの。……始末して、その材料を持ち帰ってちょうだい」
「分かった」
ロックは右腰へホルスターを装着し、最新鋭の銃を収めた。そして左の腰裏へナイフを配置すると、両腕を広げて漆黒の防刃コートを翻し、一気にはおる。重厚な黒い裾が優雅な円を描いて広がり、身に帯びた獲物を覆い隠した。
帽子のつばを深く被り直し、ロックは夜の街へと踏み出した。
月明かりすら拒む潮騒の街へ、静けさだけが落ちていく。
光と影の狭間で静かに引き金を引くその背は、ただひとつ、死にゆく者の残滓を貪る『魂を狩る者』。
漆黒の夜の帳に一筋、月光より冷ややかに研ぎ澄まされた閃光――【白銀の狩人】『ロック』は、不吉な風とともに闇の深淵へとその身を溶かしていった。
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