第7話:風華の円舞、狂王の首級
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雨上がりの湿った泥を蹴散らし、18匹の咆哮が街道の静寂を叩き割る。
剥き出しの黄ばんだ犬歯から泡立った唾液を撒き散らし、血走った眼球が7騎の獲物を凶暴に捉えていた。
「フんッ!」
前方から跳びかかってきた一頭に対し、レヴィは鋭い突きを繰り出した。
眼球から脳髄を正確に穿つ、質実剛健な一撃。華やかさこそないが、それは泥臭い実戦の中で彼が必死に叩き込んできた生き残るための剣だった。
しかし、この凄惨な戦場を――圧倒的な「美」と「死」で支配したのは、レヴィでも、手傷を負いながら必死に応戦する聖騎士達でもなかった。
――エルフの聖騎士、シルヴィアである。
『風纏衣』
彼女の全身を蒼涼たる風の渦が包み込んだ。
身に纏う風の衣。
シルヴィアの身体がしなやかに跳ねた。ぬかるんだ泥道であるにもかかわらず、彼女の足元はまるで氷上を滑走かせように軽やかで、重力を掠め取るような踏み込みを見せる。
一閃。
すれ違ったヴァーグ・エイプの首筋から、鮮血の華が咲いた。
魔物が崩れ落ちるよりも早く、シルヴィアの姿は既に2匹目、3匹目の死角へと滑り込んでいる。
その戦いぶりは、剣戟というよりも洗練された『舞闘』だった。
彼女が身に纏う風は自らの身体を加速させると同時に、愛用のレイピアに高圧の不可視の刃としてまとわりついている。目に見えぬ空気の刃が肉を裂き、骨を断つ。踏み込みの一歩、手首の返しの一振りが、すべて晩餐会で披露される絢爛な円舞曲のステップのように流麗だった。
(美しい……)
陣形の中央で、バルドルは息をのんでその光景に見とれていた。
切り裂く風の中、血飛沫の雨を浴びることもなく舞い続けるシルヴィアの姿。凛とした金髪がなびき、青い瞳が冷徹なまでの神聖さを宿して輝いている。
それは、吟遊詩人の語り継ぐ歌に登場する戦乙女そのものであり、あるいは死の舞台でひとり舞う孤独な姫君のようでもあった。バルドルの胸は、恐怖すら忘れて激しい感嘆と憧憬に打ち震えた。
「――バルドル君! あぶないッ!」
聖騎士の悲鳴で、バルドルは我に返った。
シルヴィアの美しい舞に目を奪われていた隙を突き、死角から1匹のヴァーグ・エイプが鉤爪を振り上げて跳びかかっていたのだ。
「う、おおおおッ!?」
バルドルは既に引き抜いていた剣を、無我夢中で横一文字に振り払った。
魔法学校時代、あらゆる教科で学年トップの成績を修めていたバルドルだったが、何より他を圧倒していたのは生まれ持った『肉体と腕力』だった。
ハギっ!と、剣戟というよりは重い鈍器で叩きつけたような破壊音が響く。
バルドルの振るった刃は、襲いかかった魔物の強靭な腕骨を易々とへし折り、そのまま斜め胴体に深く喰い込んで、一刀のもとに斬り捨てていた。
「俺の一撃で……」
刃から滴る内臓と血を見つめ、バルドルは自らの腕の筋力を強く噛みしめるように呟く。
聖騎士達が一瞬、言葉を失ってバルドルを見た。理屈も何もない、ただの桁外れの腕力だけで魔物を胴体ごと叩き切る力。
バルドルは荒い息を吐きながら、斬り捨てた魔物の血だまりを見下ろした。
ふと、魔法学校時代の一幕が脳裏をよぎる。かつて落ちこぼれだったラグナと交わした他愛もない会話――『俺の炎と、お前の風を合わせれば、きっとすごい魔法になるのにな』と笑い合っていたあの日の記憶。
(炎と風……)
目の前で旋風を巻き起こすシルヴィアの圧倒的な風魔法を見つめながら、バルドルは剣を強く握り直した。
シルヴィアの圧巻の連撃により、18匹いたヴァーグ・エイプの群れは急速に数を減らしていった。
聖騎士達も数名が鋭い爪で腕や脚を裂かれ、生傷を負いながらも、なんとか陣形を維持して耐え抜いている。
しかし、群れが残りわずかとなったその時――。
『グガアアアアアアアアアアアアッ!!!』
森の深部から、地鳴りのような咆哮が打ち鳴らされた。
樹木が激しく揺れ、4匹のヴァーグ・エイプが躍り出てきた。これまでの個体よりも一回り大きく、全身に無数の戦傷を持つ各群れのボスだ。
そして、その中央から悠然と姿を現したのは――異形の巨獣だった。
体長およそ3メートル。
全身を鋼のような黒毛で覆われた、巨大な『大猩猩の魔獣』。森の生態系の頂点に君臨する主――『ヤルンヴィド・バスター』であった。
丸太のように太い腕が地面を叩きつけると、街道の土が爆ぜ、激しい衝撃波が捜索隊を襲う。
「なっ……森の主だと!? なぜ街道まで降りてきているんだ!」
レヴィ男爵が顔をひきつらせて叫ぶ。
森の奥で生じた異常な『死の波動』によって興奮状態となった魔物たちは、主すらも巻き込んで暴走していたのだ。
巨獣が腕を振るうだけで、聖騎士のひとりが盾ごと吹き飛ばされ、泥の中に転がる。死者こそ出ないものの、盾を変形させる鈍い音が響いた。
「全員、下がってください! この敵は私が引き受けます!」
シルヴィアが前に出る。見えない風の刃を纏う術式は維持するだけでも多大な集中力を消費するが、彼女の佇まいには微かな乱れすら存在しない。
巨獣が丸太のような腕を振り上げ、シルヴィアへ向かって叩きつける。
シルヴィアは風を破裂させて横へ跳躍し、間一髪で回避するが、衝撃波で姿勢がわずかに崩れた。そこへ、残る各群れのボスであったヴァーグ・エイプたちが、挟み撃ちにすべく一斉に躍りかかる。
「シルヴィアさんッ!」
バルドルが叫び、陣を飛び出した。何も考えず、ただ彼女を助けたい一心で腕を突き出す。
『火一閃』
バルドルが放ったのは、繊細さには欠けるものの、莫大な魔量を注ぎ込んだ巨大な炎の槍だった。激しい業火が一直線に放たれる。
その瞬間――シルヴィアの青い瞳が冴え冴えと光った。
バルドルの思わぬ援護射撃を察知した彼女は、舞闘の旋回を思わせる華麗なステップで後ろへと跳躍し、即座に死界を脱した。そして、寸分の狂いもない絶妙なタイミングで自らの風魔法を叩きつけた。
『風烈刃』
シルヴィアの放った刃状の風が、バルドルの炎と空中で激しく交錯する。
風が酸素を爆発的に送り込み、炎の槍を巨大な『業火の旋風』へと変貌させた。勢いを増した熱風の渦が、挟み撃ちに迫っていたヴァーグ・エイプたちを呑み込み、そのまま巨獣『ヤルンヴィド・バスター』の全身を容赦なく包み込む。
『グオオオオアアアアアアアアッ!?』
想像を絶する熱量と破砕の風の渦に晒され、巨獣の皮膚が焼き爛れ、激しい悲鳴が上がった。
完璧な属性干渉。バルドルの猛火を十全に活かしきったシルヴィアの技量が、格の違いを見せつける。
直後、炎の渦が弾けた一瞬の隙――。
シルヴィアの全身を、極限まで高められた嵐が包み込む。彼女の身体が一筋の透明な疾風と化し、踏み込んだ。
――『風華旋舞』。
一瞬の静寂。
旋風とともにすれ違い、シルヴィアの身体が巨獣の背後へ降り立つ。彼女が静かにレイピアを鞘へと収める金属性の音が響いた。
次の瞬間。
『……ガ……』
3メートルの巨体を持つ森の主の太い首筋から、全周にわたって一直線の風の線が走った。
ドスン、と重い音を立てて、巨大な頭部が胴体から滑り落ち、血の噴水とともに地面へ転がり落ちる。
直後、ヴァーグ・エイプたちも、通過際に放たれた風刃によって刻まれ、次々と泥の中に倒れ伏した。
――討伐完了。
静寂が、街道を取り戻した。
シルヴィアは、静かに深く息を吸い込み、清冽な空気を満たして呼吸を整えた。
多数の魔獣との死闘を切り抜けたとは到底信じがたい。その繊細な肌には汗の一滴すら浮かんでおらず、雪のように白い佇まいは返り血の一滴に染まることすら拒んでいる。惨絶な殺戮の只中にあってなお、月光に透ける一輪の花のごとき神聖な美しさを湛えていた。
「す、素晴らしい……! さすがはエルフの元老院から認められて我が国に派遣された実力者だ!」
レヴィ男爵が引きつった笑みを浮かべながら、拍手を送る。
その瞬間――シルヴィアの凛とした青い瞳に、氷のように冷たく禍々しい『怒り』の色彩が走った。
しかし、レヴィがそれに気づくよりも早く、彼女は一瞬でいつもの気高く冷静な表情へと戻してみせた。言葉には出さずとも、その背後に渦巻く確執の深さを感じさせる。
「バルドル君」
シルヴィアが歩み寄ってきた。彼女の視線は、バルドルが手に握る剣に向けられている。
「先ほどの見事な炎の援護、感謝いたします。……ですが、その剣をご覧ください」
「えっ……?」
言われてバルドルが手元を見つめると、上等だったはずの剣の刃先が、力任せの打撃によってひどく波打ち、惨破していた。
「バルドル君の力、そして腕力は極めて人並み外れたものがあります。ですが……そのように力に任せて振るうには、その細身の剣では重みと耐久性が足りていません」
シルヴィアは一刀のもとに斬り捨てられた魔物の肉体を指し示した。
「次の街(ノルズ港)へ着いたなら、もっと重量のある大剣『バスタードソード、あるいはクレイモア』をお買い求めになるといいでしょう。あなたの持つ圧倒的な剛力は、繊細な剣技よりも、重厚な破壊力を活かしてこそ真価を発揮します」
「大剣……俺の力が……?」
バルドルは己の両手を見つめ直した。
(大剣……。そうだ、俺にはシルヴィアさんのような美しい剣技や魔法もない。だけど……この力ならラグナを救い出すための『盾』になり、『剣』になれる!)
「ありがとうございます、シルヴィアさん! ノルズ港に着いたら、すぐに頑丈な大剣を探してみます!」
純粋な決意を瞳に宿して微笑むバルドル。
シルヴィアはその素直さを眩しそうに見つめつつも、胸の奥で小さな不安を拭えずにいた。森の奥から漂っていた。あの異様なおぞましい気配――そして、一連の事件の陰に隠された聖導国の闇。
「隊長。全員の傷の手当てを終え次第、出発しましょう。長居は無用です」
「む、むむ……そうだな。全員、急いで応急処置を済ませろ!」
レヴィ男爵が命令を下す。
傷を負った聖騎士達も、互いに包帯を巻き合い、疲弊した身体を鼓舞して立ち上がった。幸いにも命に別状のある者はいないが、怪我と疲労で限界に近い。
傷ついた7騎の捜索隊は、泥と血に汚れた馬を引きながら、重い足取りで街道を再び歩み始めた。
(……ラグナ)
馬の手綱を握りながら、バルドルは不意に鬱蒼と茂るヤルンヴィドの森へと視線を走らせた。
これほどまでに狂暴な魔物の群れ、そして3メートルを超える巨獣までもが蠢く悪夢のような樹海。精鋭の聖騎士たちでさえ薄氷を踏む思いで切り抜けた死地に、あの華奢な後輩は足を踏み入れたのだ。
(こんな危険な場所を……無事に抜けられたのだろうか)
胸を刺すような強い不安が押し寄せる。
脳裏に浮かぶのは、魔法学校時代、不器用で落ちこぼれだったが、どこか憎めない子犬のように人懐っこい笑みを浮かべていたラグナの顔だった。自分を見つめていたあのくりっとした瞳。
(頼む、無事でいてくれ……ラグナ。絶対に俺が救い出してやるから……!)
バルドルは切なる祈りを胸に抱き、固く拳を握りしめた。
空を見上げれば、昼の蒼はすでに退き、天の縁から爛々と燃える黄金と鬱血した紫の絵の具をぶちまけたような黄昏が、世界を緩やかに呑み込み始めている。
死の臭気漂う樹海を背に、沈みゆく陽光が影を長く引く。
その斜陽が照らし出す南の果て――波間に浮かぶ無数の船の帆影と、異国の熱気が混ざり合う闇の巨大港町『ノルズ港』の禍々しい輪郭が、刻一刻と迫りつつあった。
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