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死者を統べる者は、魂を喰らって明日を歩む  作者: 涼風あさ
地獄編

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第4話:泥の味、降りしきる雨

お読みいただきありがとうございます。毎日19:10頃に更新します。

その後は、毎週 月・水・金曜日 の 19:10で更新していきます。

顔面に打ちつける冷たい衝撃で、ラグナは意識を取り戻した。


「……ん……っ」


雨だった。


暗雲の垂れこめるヤルンヴィドの森に、ポツポツと落ち始めた雨粒が、やがて激しい篠突く雨となってラグナの頬を叩いていた。


全身が鉛のように重い。


泥まみれになりながら起き上がろうとした瞬間、右腕に焼きゴテを押し当てられたような激痛が走り、思わず歯を食いしばった。


「ぐっ……ぅ……!」


ヴァーグ・エイプに噛み砕かれた右の前腕。袖は破れ、骨が軋み、肉が抉れて生々しく血が滲み出ている。


このままでは出血多量か感染症で死ぬ。ラグナは右腕を手当てするため、羽織っていた黒いマントを一度肩から滑り落とし、地面へ脱ぎ捨てた。


マントと共に頭を覆っていたフードが外れ、雨粒がラグナの頭髪を濡らす。


絶望的な逃亡劇と死霊術の過酷な過負荷、そして極度のストレスによって、かつて漆黒だった彼の髪が一筋残らず神聖にして禍々しい「白銀」へと変色を遂げていることに――当のラグナ自身はまだ一切気づいていなかった。


ラグナは手当の布を作るため、顔を隠すのに絶対必要なフード部分を避け、脱いだマントの裾の破れ目を探した。


左手と歯だけを器用に使って布地を強引に引き裂き、長い帯状の布を作る。


止血の布を巻きつける前に、ラグナは先ほどの戦いで破れたカバンから転がり落ちていた水筒を拾い上げた。


爪で引っかかれたのか、金属製の水筒には小さな穴が開き、傾けるとポタポタと水が漏れていた。だが、中にはまだ水が残っている。


ラグナは水筒の蓋を口で外し、水を一口含んで喉を湿らせると、残りの水を右前腕の痛々しい傷口へ直接ぶちまけた。


「ッ~~~~~~~!?」


声にならない激痛が全身を駆け抜ける。


泥と土汚れが洗い流されると同時に、傷口へ冷水が染み込み、激しい熱感と痛みが脳髄を殴りつけてきた。荒い吐息を吐きながら激痛に耐え、ラグナは先ほど作ったマントの切れ端を傷口に固く巻きつけ、口で結び目を強く引き絞って応急処置を終えた。


空になった、穴の開いた水筒を眺める。何かに使えないかとしばらく思案を巡らせてみたものの、いまの状況で壊れた水筒を持ち歩く明確な利用法は何も思いつかなかった。ラグナは未練を断ち切るように、それをその場に投げ捨てた。


食欲なんて微塵もなかったが、体内の警鐘が激しい空腹を打っていた。


先ほどの戦いで散らばった、泥まみれの干し肉のかけらを拾い上げる。手で軽く泥を払うと、躊躇なくそれを口の中に押し込んだ。


「……んぐ……っ」


舌の上に広がるのは、塩気よりも強い泥とカビの味。食事というより、命を繋ぐために泥ごと肉を胃袋へ叩き込む作業。ザリザリとした嫌な感触を噛みしめながら、必死に喉の奥へ流し込んだ。


ふと横を見ると、そこには黒い布を纏った不気味な半透明の怪物――『レイス』が、ラグナの傍らに静かに浮遊していた。


ラグナが過酷な精神的過負荷と魔力酔いで倒れ伏し、無防備に眠りこけていた間、野生の魔物たちが一切近づいてこなかったのは間違いなくこのレイスのおかげだ。


生命そのものを拒絶する圧倒的な死の気配。本能に生きる森の獣ほど、この化け物の異質さを察知して逃げ出したのだろう。


足元には、魂を抜かれて絶命したヴァーグ・エイプの肉塊が転がっている。


(……この死体を使って『屍鬼召喚(ネクロ・ライジング)』をするか……?)


一瞬、思考がよぎる。だが、ラグナはすぐに首を振った。


レイスなら姿を消して連れ歩けるが、アンデッド化したヴァーグ・エイプはあまりにも目立つ。死体をそのまま引きずって歩くわけにもいかないし、何より気絶している間に魔力がいくらか回復したとはいえ、屍鬼召喚(ネクロ・ライジング)を維持・発動するには今のラグナの魔力では足りなさすぎた。


それに、目の前のレイスとて無敵ではない。


錬成の際に注ぎ込んだ魔力と9つの魂は、砂時計の砂が落ちるように、刻一刻と摩耗し消費されているのだ。このレイスが形を保っていられる時間には、制限時間(リミット)が存在する。


ラグナは手当の済んだ腕を庇いながらマントを羽織り直し、再びフードを深く被ると、重い足を一歩前へ踏み出した。


(考えても仕方ない……進むんだ)


天を仰げば、降りしきる雨は勢いを増し、森の樹木を、泥の地面を、そしてラグナの絶望的な世界を、全て灰色に塗り潰していくように激しさを増していった。


その頃――首都アスガルドの南西に位置する『アンザス村』。


激しい雨の降る村の広場に、7騎の馬群が踏み込んできた。


超法規的措置によって選抜された6名と、志願したバルドルを加えたアスガルド聖導国の捜索部隊である。


「チッ、こんな泥臭い村に潜伏していると思ったが……何の成果もなしか!」


豪奢な雨具を羽織ったレヴィ男爵は、馬上で心底苛立ちを露わにしていた。


怯える村人たちを家々から引きずり出し、乱暴な尋問を行ったものの、ラグナに関する目撃情報は一切得られなかったのだ。


「隊長。私の意見を申し上げてもよろしいでしょうか」


雨の中でも一切乱れることなく、凛とした佇まいで馬を進め出てきたのはエルフの聖騎士、シルヴィアだった。その青い瞳にはブレない意思が宿っている。


「なんだ、シルヴィア君」


「ラグナは……あの容疑者は、このアンザス村には潜伏していません。ここは警務部隊が首都の次に捜索する場所です。彼なら、さらに遠く……人口が多く他種族の混ざり合う『ノルズ港』を目指したと考えるのが妥当かと」


その毅然とした美しい姿に、背後に控えていたバルドルは一瞬だけ言葉を失い、見とれてしまった。


だが、すぐにハッと我に返り、彼女の言葉に力強く頷いた。


「私……私もシルヴィアさんに同意します。ラグナは……あいつは魔法学校の成績こそ良くなかったですが、昔から変に頭の切れるやつでした。首都から近いアンザス村に留まるようなヘマは絶対にしません」


バルドルは未だに、ラグナが冤罪で追われ、恐怖で逃げ惑っていると固く信じ込んでいる。


レヴィ男爵は、若造であるバルドルに口を挟まれたことに内心激しく苛立った。


しかし、差し出されたシルヴィアの的確な進言、そして彼女の美しい佇まいを目にし、下品な下心を鎌首持ち上げさせた。


村から少し離れた場所には大きな川が流れ、そこには立派な橋が架かっている。橋を渡った先には、危険な『ヤルンヴィドの森』を大きく迂回してノルズ港へと続く安全な街道が存在していた。


「……ふむ。一理あるな。よし、今夜はこの村で宿を取り、明朝一番で橋を越え、森を迂回する街道沿いにノルズ港へ向かう!」


レヴィの決定に、部下たちが動き始める。


背を向けたシルヴィアのしなやかな後ろ姿を、レヴィ男爵は嫌イヤらしい笑みを浮かべて上から下へと舐め回すように見つめていた。


(フン……お高く止まっていろ。近いうちに事故に見せかけて身ぐるみを剥ぎ、私の奴隷にしてやろう……)


そんな下劣な妄想を膨らませながら宿へ向かう道中、レヴィ男爵の頭の中にふとある情報が浮かんだ。


(そういえば……ノルズ港には、聖導国でも知る者の少ない『非合法の娼館』があったな……)


男爵の唇に、暗く濁った歪んだ笑みが浮かんでいた。


ヤルンヴィドの森を抜け、ラグナはついに平原を走る街道へと出た。


いつどこで人の目があるか分からない。


ラグナはレイスを不可視の状態に変化させ、すぐ後ろに潜ませた。


『死霊召喚(ゴースト・コール)』と『霊禍招来(レイス・フォージ)』は実体を持たない存在のため、敵に気づかれずに連れ歩く隠密性や、見張り・索敵において極めて高い有用性を発揮する。

その一方で不可視化状態を維持している間は干渉力が制限されるため、「攻撃能力」が著しく低下してしまう。


(『屍鬼召喚(ネクロ・ライジング)』は強力だけど、死体が必要だし目立つ。不可視になれるレイスは、こうして連れ歩くには圧倒的に便利だ……)


9つもの魂を全て使い切って生み出した甲斐はあった。


……だが、このレイスも永続ではない。制限時間が来れば消滅してしまう。今後の逃走劇を勝ち抜くためには、どうしても新しい『魂のストック』が必要になる。


だが、その前に――。


(怪我の治療……休息……それに、逃走資金……)


今のラグナには、足りないものがあまりにも多すぎた。


廃鉱で女暗殺者を殴り殺したとき、なぜ彼女の持っていた短剣を回収しておかなかったのか。いま手元にある攻撃手段や道具といえば、あの死体から奪ったコインの詰まった革袋だけだ。自分の甘さと経験不足に、激しい後悔が押し寄せる。


廃鉱で暗殺に止めを刺したのは地面に転がっていた石であり、先ほどヴァーグ・エイプとの戦闘で起死回生の一撃となったのは、このコインの詰まった革袋だった。


(石に……コインの入った袋、か……)


武器すら持たず、あまりにも原始的な殴り合いで命を拾ってきた自分に、ラグナの口元から自嘲の息が漏れる。


「……商人の最大の武器は金だって言った人がいたけど……打撃用の武器として使う意味じゃないよな……」


ポツリと独り言を呟き、虚しさと己の無力さを噛みしめた。


自分の無力さと足りないものばかりの現状に、胸が押し潰されそうになったその時――。


ガラガラガラ……。


街道の向こうから、一台の立派な馬車が雨を突いて走り抜けていった。


ラグナは深くフードを被り、泥道に身を寄せてやり過ごそうとした。


……だが、その馬車の小窓から、一人の女性の視線が向けられていた。


馬車に乗っていたのは、ノルズ港にある非合法の娼館の主、ヘカテ。かつて元娼婦として無数の男たちを手玉に取り、己の欲望と才覚だけで娼館の頂点へ成り上がった女性だ。


年齢こそ重ねているものの肌は吸い付くように美しく、豊かな身体のラインを際立たせた衣装を纏う、酷く妖艶な雰囲気を醸し出している。


(あら……あんな泥道で、小柄で顔立ちの整った子供が……。右腕の怪我を手当てしてやれば、うちの店で極上の男娼としていい金になりそうだわ……)


主の細められた眼差しを受け、御者台の横に控えていた二人の護衛が、即座に馬車を停止させた。


「……ッ!?」


通り過ぎたはずの馬車が止まり、全身の血が引く。追手か!?


ラグナが即座に身構えると、馬車から降りてきた護衛の二人組が歩み寄ってきた。腰に剣を差した頑強な体躯の男たちだ。


だが、護衛たちは警戒されないよう、親切で哀れむような笑みを浮かべて語りかけてくる。


「おいおい……こんな激しい雨の中で、子供が一人で何やってんだ?」


「右腕に凄い怪我をしてるじゃないか! 大丈夫か? 雨もしのげるし、次の港町まで馬車に乗せていってやろうか?」


温かな手を差し伸べる振りをし、無警戒な子供を泥沼へ誘い込もうとする優しい声。


だが、彼らが抱く『娼館の新商品』という裏の思惑にまでは気づいていなかったものの、ラグナの心は一瞬で氷のように冷え切っていた。


(こんな雨の街道で、傷ついた子供に無償で手を差し伸べる親切な人間?)


(ハッ、馬鹿馬鹿しい)


他人の好意や親切に甘えられるようなお目出たい人間は、あの地下聖堂で死んだのだ。


ラグナは背後に控える不可視のレイスへ、静かに意識を集中させる。


親切な顔をした大人も、牙を剥く魔物も、自分にとっては等しく「奪いに来る敵」だ。


慢心も油断もしない。何が起きようと、ボクは生き残ってみせる。


雨の中、ラグナは黒いフードの奥で冷たく爛々と瞳を光らせ、無言のまま静かに臨戦態勢に入った。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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