第3話:慢心の代償、出立の喇叭
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ヤルンヴィドの森を包む暗闇は、予想以上にラグナの感覚を狂わせていた。
(身体が……重い……)
一歩踏み出すごとに、泥に足を取られるような錯覚に襲われる。
それもそのはずだ。ラグナは今日、両親の死を知り、命からがら逃げ惑い、二度の殺人を行ってきた。廃鉱で口にしたわずかな乾パンも、川の中で全て吐き出している。
胃の中は完全に空っぽで、体力の限界などとうに超えていた。
それなのに、脳を灼くアドレナリンと、自分の思い通りに殺人を成功させた高揚感が、身体の悲鳴を覆い隠していたのだ。
自分は強い。禁忌の死霊術を使えば、どんな敵だって殺せる――と。
「ガァッ!!」
不意に頭上から黒い影が飛び降りてきた。
「なっ――!?」
咄嗟に後ろへ飛び退く。間一髪で鋭い爪が空を切り、地面の落葉を盛大に撒き散らした。
月光の届かぬ樹海の下に姿を現したのは、体長1メートルほどの毛深い魔物。雑食で凶暴な猿の魔物――『ヴァーグ・エイプ』だ。
(なんだ……ただのヴァーグ・エイプか)
ラグナの口元に、自然と歪んだ冷笑が浮かぶ。
群れから追い出された単体の雑魚。魔法学校の授業でも『下級の脅威』と習うような相手だ。
だが、ラグナは完全に失念していた。
自分自身は魔法学校でも落ちこぼれの、筋力も身体能力もないただの子供だということ。そして、目くらまし(フラッシュ・バン)の小瓶を使い切り、手元に武器がないということを。自分の思い通りに人を殺せたという暗い高揚感が、そのあまりにも致命的な隙を意識から追い払っていたのだ。
「ガルァッ!!」
ヴァーグ・エイプが牙を剥き、地を蹴った。速い。
暗殺者を殺せたからといって、ラグナ自身の眼力や反応速度が上がったわけではない。体力の限界を迎えた身体は、頭の命令に全くついていかなかった。
「くっ……!?」
避ける動作すら間に合わず、ラグナは咄嗟に肩にかけていた革のカバンを前に突き出した。
バリィッ!
ヴァーグ・エイプの鋭利な爪がカバンを激しく引き裂く。
衝撃で後ろへ吹き飛ばされ、泥の中に背中から転がった。破れたカバンから、干し肉と水筒が散らばり落ちる。
「ガアアッ!」
間髪入れず、魔物がラグナの胸の上に飛び乗り、馬乗りになった。
重い。喉元に迫る凶悪な牙と、生温かい吐息。
死の恐怖が、氷水を浴びせられたように全身を突き抜けた。
(嘘だろ……なんで……なんでボクの身体、動かないんだ……!?)
そこで初めて、ラグナは己の愚かな慢心に気がついた。
自分は何の身体能力もない、ただの落ちこぼれのガキだ。暗殺者を倒せたのは、相手の不意を突けたからに過ぎない。自分を全能の化け物だと勘違いし、『下級の脅威』に殺されかけている。
絶望が視界を真っ黒に染めかけた、その瞬間。
『助けて、ラグナァァァッ!』
脳裏に、あの地獄の光景がフラッシュバックした。
両親に『屍鬼召喚』をかけ、二度目の死を与えたあの忌まわしいトラウマ。
――倫理も、罪悪感も、すべて捨ててしまえばいい。勝つためなら、どんな泥だって喰ってやる。
さっき、自分自身に誓った言葉が脳髄を叩く。
瞬間、麻痺していた思考が冷徹にクリアになった。
そうだ。自分がここまで生き残れたのは、特別な力があったからじゃない。なりふり構わず、死に物狂いで生に喰らいついたからだ!
ヴァーグ・エイプがラグナの喉元へ向けて顎を大きく開く。
「がぁぁぁッ!!」
ラグナは咄嗟に右の前腕を突き出し、ガードに入った。
バキキッ、と骨が砕ける生々しい嫌な音が響き、鋭い牙が右前腕の肉と骨を深く噛み砕く。
右腕を襲う地獄のような激痛。骨折と激しい裂傷により腕の感覚が失われていくが、喉を噛み切られるよりはマシだ!
「あぁぁぁぁぁッ!」
痛みに叫びながら、ラグナは左手を自分の服のポケットへ突っ込んだ。
指先がかすめたのは、死んだ女暗殺者の懐から奪い取った、銀貨と銅貨の詰まった革袋だ。それを掴み出すと、スリングのように遠心力をかけ、至近距離から猿の顔面へ思い切り叩きつけた!
ドカッ!!
硬い金属の塊が猿の目元を直撃する。
ヴァーグ・エイプは悲鳴を上げ、たまらずラグナの右腕を離して後ろへ跳び退いた。
「ハァ……ハァ……ッ!!」
噛み砕かれた右腕からあふれ出る血を無視し、ラグナは立ち上がると、残された左手を突き出した。
ストックしていた9つの魂。その全てを、持ち得るありったけの魔力で無理やり『融合・練成』あげる!
禁忌の秘術――『霊禍招来』
ズズズズ……ッ!
ラグナの目の前で、大気がドロリと黒く歪んだ。
暗殺者や兵士たちの9つの怨嗟が混ざり合い、朽ちかけた黒い布を全身に纏った、不気味で背の高い怪物――死者の情念そのものが形を成した怪異が立ち現れる。顔の開口部からは底知れぬ漆黒が覗き、周囲の温度を一気に凍てつかせるような絶望的な冷気が解き放たれた。
「ガル……っ!?」
ヴァーグ・エイプの動きが、完全に凍りついた。
野性の本能が理解したのだ。目の前にいるのは、決して関わってはいけない、生命そのものを拒絶する絶対的な死の深淵だと。
猿は戦意を完全に喪失し、耳を伏せ、腹を見せて地面に伏せた。野生生物特有の、完全な『降伏のポーズ』。
だが――ラグナは冷たく見下ろすだけだった。
「……喰え」
ラグナの低く無機質な命を受け、レイスが滑るような動作でヴァーグ・エイプへと覆いかぶさった。
物理的な衝撃はない。だが、レイスが猿の身体を侵食した瞬間――。
「ギァァァァァァァァァァッ―――!?」
森全体を揺るがすような、この世のものとは思えない苦悶の断末魔が響き渡った。
魂を直接吸い上げられ、引き千切られる激痛。ヴァーグ・エイプは血の一滴も流さぬまま、瞳から光を失い、ビクンと一度大きく跳ねて即死した。
「ハァ……ハァ……っ」
右腕の傷と魔力消費に耐えかね、ラグナは地面に膝をつく。
すると、絶命した猿の死体から、一筋の小さな蒼い燐光が立ち上り、ラグナの胸元へ吸い込まれてきた。
(……そうか……。人間だけじゃない……命を奪えば、どんな生き物の魂でも吸収できるんだ……)
猿の死体があり、吸収した魂がある。
これでまた『ネクロ・ライジング(屍鬼召喚)』が使える――そう思考が繋がった瞬間。
「ぐっ……あぁぁぁぁぁッ!?」
右腕の破壊された激痛と魔力酔いすら瞬時に吹き飛ばすほどの、おぞましい精神的激痛がラグナを襲った。
全魔力を絞り尽くした過酷な代償に加え、レイスを練成するために叩き潰した『9人分の怨声』が、苛烈な精神的過負荷となって一気に脳内へ逆流してきたのだ。
『殺された……!』『寒い、痛い!』『お前も来い!』
「やめてくれ……頭が……割れる……っ!!」
脳髄を直接切り刻まれるような恐怖と呪詛の狂騒。
まだこの時のラグナは知る由もなかった。この死霊術の代償たる極限の精神的過負荷とストレスが、自身の体を蝕んでいることを。
ラグナは頭を強く抱え込み、泥の上でただ絶叫し、転げ回ることしかできなかった。
同じ頃――アスガルド聖導国、首都アスガルド。
煌びやかな大聖堂の広場には、朝露に濡れる甲冑を身に纏った6騎の聖騎士たちが集結していた。
死霊術を使う凶悪な大量殺人犯――ラグナ。
本来、指名手配犯の捜索や捕縛は警務部隊の管轄である。しかし今回は、上層部からの謎の圧力と超法規的措置により、聖騎士団の中から特に精鋭とされる6名が選抜され、捜索部隊として結成されたのだ。
「まったく、忌々しい。落第生のガキひとりを追うために、なぜこの私が直々に動かねばならんのだ」
隊長を務める男――レヴィ男爵は、豪奢な装飾の施された剣を腰に叩きつけながら、不機嫌そうに吐き捨てた。
聖導国の上流貴族出身であり、特権階級を鼻にかけ、他種族や平民を見下す典型的な選民思想の持ち主だ。
その隊列の中に、ひとりのエルフの少女が佇んでいた。
美しい金髪と、澄んだ青い瞳。故郷のアルヴェイラ領域から聖導国に派遣されているエルフの聖騎士――シルヴィアだ。
彼女は馬上で静かに前を見つめながら、レヴィ男爵の態度に強い不快感を抱いていた。だが、立場上、静かに指示に従っている。
(ラグナ……本当に、あの少年がそんな凄惨な事件を……?)
シルヴィアは知っていた。
ラグナの両親――『アルヴィス』と『ヘーニル』のふたりを。
人間でありながら誇り高く、清廉潔白な聖騎士だった。エルフであるシルヴィアに対しても種族の隔たりなく接し、彼女が深く尊敬していた数少ない人間だったのだ。
直接言葉を交わしたことこそなかったが、シルヴィアは遠目で一度だけ、ふたりに連れられた息子のラグナを見かけたことがあった。小柄で中性的な顔立ちをした、虫も殺せないような優しい雰囲気を纏った少年――それが彼女の記憶にあるラグナの姿だった。
「フン、親のアルヴィスもヘーニルも、大層な聖人を気取っていたくせに、裏ではろくでもない研究でもさせていたんだろうな。蛙の子は蛙だ。不潔な血みどろの犯罪者どもが」
レヴィ男爵が嘲笑混じりに吐き捨てる。
シルヴィアの青い瞳に、一瞬だけ鋭い冷気が宿った。
彼女は静かに馬を並べ、感情を押し殺した冷徹な声で告げた。
「……レヴィ隊長。亡くなったアルヴィス殿とヘーニル殿は、生涯を捧げて国に尽くした誉れ高き聖騎士です。死者を根拠なく貶める発言は、聖導国の騎士としての気品を損なうかと」
「ん……? ああ、なんだシルヴィア君」
レヴィ男爵はチラリと振り返ると、謝罪する素振りを見せながら、その下品な視線をシルヴィアの美しい顔立ちから、甲冑に包まれたしなやかな身体のラインへと、舐め回すように上から下へと動かした。
「すまんすまん、君のような美しいエルフの乙女を不快にさせるつもりはなかったのだよ。まあ、君の顔に免じておこう」
粘りつくような嫌悪感に、シルヴィアは背筋が凍りつく思いだったが、一切表情を変えずに正面を見つめて無視した。
「よし! 出発だ! 正門へ向かうぞ!」
レヴィ男爵の号令の下、隊列が進み始める。
だが、その背中を見つめながら、シルヴィアの脳裏にはぬぐい切れぬ疑問が渦巻いていた。
(……ろくでもない研究、だと……?)
公表されたアルヴィスとヘーニルの死因は、魔物討伐中の戦死だ。
しかし、ふたりは『連続住民失踪事件』の極秘調査任務に出ていたはず。それなのに、なぜ教会の上層部は死因を単なる魔物討伐として処理し、いまレヴィ男爵は「裏で不審な研究をしていた」などと知っていたかのように口にしたのか。
不自然すぎる辻褄の合わなさ。
シルヴィアは直感した。ふたりの死と、息子のラグナが起こしたとされる事件の背景には、教会内部がひた隠しにする巨大で恐ろしい「裏」が存在している、と。
隊列が正門前へと差し掛かった時、その動きがぴたりと止まった。
門の前に、ひとりの大柄な青年が立ち塞がっていたからだ。
上流貴族の豪奢な鎧を身に纏い、腰に上等なロングソードを差した青年――魔法学校時代のラグナの先輩、バルドルだった。
「レヴィ隊長! お願いです、私をその捜索部隊に加えてください!」
「何だと……? バルドル君か。申し訳ないが、これは特別に編制された任務だ。学生の出る幕ではない」
レヴィが厄介そうに眉をひそめる。しかし、バルドルは一歩も引かなかった。
「ラグナは……あいつは罪なんて犯していません! あんな虫も殺せないやつが、人を殺すはずがないんです! きっと何かの恐ろしい事件に巻き込まれて、逃げ惑っているだけに決まっています! 私が……私が直接行って、あいつを助け出してみせます!」
「……」
レヴィ男爵は内心で算盤を弾いた。
バルドルの父親であるフレイ枢機卿は、現教皇の遠い親戚であり、民衆や聖職者からの絶大な人気を誇る『次期教皇候補』の筆頭格だ。ここで貸しを作っておけば、自分の将来の出世に大いに役立つ。
「……なるほど、君の友情には感服したよ、バルドル君。よろしい、同行を許可しよう。ただし、私の指示には絶対従うことだ。おい、彼に馬を用意しろ!」
「感謝します、レヴィ隊長!」
バルドルは深く頭を下げ、差し出された馬の手綱を握りしめた。
その瞳には、濁りのない絶対的な確信が宿っていた。
ラグナが罪を犯したなどという噂を、バルドルは微塵も信じていない。両親を失い、陰謀に巻き込まれて怯えている哀れな後輩を、自分がその手で救い出さなければならない――ただそれだけを強く思い込んでいた。
(ラグナ……待っていろ。お前は何も悪くない。俺が絶対に、その陰謀から救い出してやるからな……!)
少年が大切な友人を救いたい一心で抱いたその純粋すぎる盲信が、やがて歪んだ狂気と裏切りへと変貌していくことを、この時の彼はまだ知る由もなかった。
出立の号令の喇叭が、朝焼けの首都に高く響き渡った。
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