第2話:命の重み、壊れた天秤
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月光すら閉ざされた漆黒の廃鉱は、死の静寂に満ちていた。
冷え切った暗闇が肌を刺し、静まり返った坑道には、追う者と追われる者の殺気だけが淀みなく蠢いている。
出口に立ち塞がっている暗殺者の放つ凄絶な殺気が、湿った空気を一瞬で凍りつかせる。
ラグナは黒いマントのフードの下で、荒い息を必死に押し殺していた。
思考が高速で回転する。目の前に立ち塞がるのは、幾多の修羅場を潜り抜けてきたベテランの女暗殺者だ。魔法学校で基礎しか学んでいないラグナの能力では、刃を交えるどころか、まともに言葉を交わす暇すらなく一撃で首を落とされる。
(戦っちゃ駄目だ……勝てるわけがない……!)
ラグナは左手に『月燐石』の微粉末が詰まったあの小瓶を握りしめている。
(錬金術の実習で、材料を間違えて派手に光らせたあの失敗……今、ここで再現する……!)
ラグナは息を吸い込むと、小瓶に軽く魔力を流し込みながら、彼女の足元めがけてふわりと放り投げた。
同時に――ラグナは固く両目を閉じる。
「なに――!?」
カチリとひびの入った小瓶が地面に落ち、破裂した。
月燐石という優れた触媒を介し、ごく僅かな魔力は爆発的な化学反応を引き起こして過剰なエネルギーを一気に解放する。
――閃光。
闇に慣れていた女暗殺者の眼球を、太陽をも凌駕する「蒼白い激光」が容赦なく貫いた。
暗闇で夜目がきいていたことが、彼女にとって致命的な仇となる。
「ぐああぁぁぁっ!? 目が、目がぁぁぁっ!!」
直撃を受けた女暗殺者が、両目を押さえて凄絶な悲鳴を上げた。視界を完全に奪われ、強烈な眼痛と狂乱のあまり、手に持った短剣を闇雲に振り回す。
ラグナは光が収まった瞬間に目を開き、周囲を確認した。
あらかじめ目を閉じていたことで視界の眩みを最小限に抑えたラグナは、迷わずゆっくりと暗殺者の背後へと回り込む。
足音すら立てず、呼吸も気配も完全に殺して――まるで、闇から滲み出た亡霊のように、静かに佇んだ。
ラグナを見失った女暗殺者の短剣は、虚空を切り裂いて虚しく空を切っていた。
「どこだ、どこへ行った!?」
焦燥の声を上げるが、自分のすぐ真後ろに、冷たい死が立っていることに気づいていない。
(殺さなきゃ……殺さなきゃ、ボクが殺される……ッ!)
ラグナは地面に転がっていた重厚な拳大の石を手にとると、彼女の頭後部めがけて全身の体重を乗せて叩きつけた。
振り下ろす。
ガッ!
「あぐっ……ま、待っ――」
振り下ろす。
ドスッ!
「ひ、ひぃ……っ」
振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。
何度も、何度も、何度も。
どれほど殴りつけたのか、もう分からなかった。
最初は苦悶の声を上げていた女も、やがてピクピクと四肢を痙攣させるだけになり、最後はぐしゃりと嫌な音を立てて動かなくなった。
頭部が無残な肉塊へと変わり、完全に沈黙した時――。
すぅっと、女の死体から蒼い燐光が立ち上り、ラグナの胸元へと吸い込まれてきた。
死体安置所のときと同じだ。女の抱いていた殺意、生の残滓、命の重みが、ラグナという器の中にドロリと沈殿していく。
「……やっと、死んだか」
ポロリと手から石がこぼれ落ちる。
口から漏れたのは、自分でも驚くほど冷淡で、感情の籠もっていない言葉だった。
その時、もし鏡があれば、己の顔に戦慄していただろう。自分の思い描いた筋書き通りに人を殺せたという暗い達成感。その歪んだ愉悦ゆえに、唇は無意識のうちに冷酷な笑みを象っていたのだから。
ラグナは躊躇なく膝をつき、血みどろになった女の死体をあさり始めた。身元を示すような書状や紋章の類は一切ない。徹底された使い捨ての暗殺者。代わりに、女の懐からいくつかの銀貨と銅貨が詰まった革袋、そして小さな干し肉の包みを見つけ出し、カバンへ突っ込んだ。
岩の隙間に深く突き刺さった短剣のことなど意識から完全に抜け落ちたまま、ぐしゃりと潰れた女の頭部を見下ろす。
「……人間って、簡単に壊れるんだな」
幼い頃、誤って床に落として割ってしまった陶器の人形。
それと全く同じ手応えで、人間の命はあっけなく途絶えた。命の価値があまりにも軽々しく、脆いものに思えて仕方がなかった。
ラグナは黒いマントのフードを深く被り直し、女の死体を踏み越えて廃鉱を後にした。
まずは、潜伏だ。
この近くの『アンザス村』に逃げ込んでも、すぐに追手に見つかる。身を隠すなら、もっと遠く、人が蠢く巨大な場所でなければならない。
――走りながら、頭の中で家族と暮らした首都アスガルドの周辺地理を懸命に反芻する。
(アスガルドの南には、広大な『ヤルンヴィドの森』がある。その森を南に抜けた先に『ノルズ港』があるはずだ……)
追手としては、この女と同じような暗殺者がまだ来るかもしれない。警務部隊などの公の部隊が動く可能性もあるが、お役所仕事の組織が正式に動くには相応の時間がかかるはずだ――ラグナはそう高を括っていた。
だが、いずれにせよ関所や見張り兵のいる場所は通れない。
アスガルドと南の森の間を流れる太い川には橋がかかっているが、そこには見張りの兵が立っているはずだ。お尋ね者のボクが渡れるわけがない。
(橋を使わずに向こう岸へ渡るには、川の上流にある浅瀬を越えるしかない。浅瀬を渡って『ヤルンヴィドの森』に入り、森を抜けて『ノルズ港』を目指そう……)
夜空を見上げれば、どす黒い暗雲が低く垂れ込め、いまにも冷たい雨が落ちてきそうな気配に満ちていた。
(急がないと……雨が降り出して川が増水したら、浅瀬すら渡れなくなる……!)
暗殺者の追手が次へと迫る前に。
ラグナは湿った夜の風を切り、ひとり南へと走り出した。
ラグナは川沿いを下り、水深の浅い瀬を見つけ出すと、冷たい川の水に足を踏み入れ、静かに歩いて渡り始めた。
ジャバジャバと足を濡らしながら、ラグナは廃鉱で見つけた乾パンをカバンから取り出し、ボソボソとしたそれを口に押し込んだ。噛み砕き、冷たい川水と一緒に飲み込みながら、頭の中に刻まれた『禁忌の秘法』――死霊術の知識を整理し始めていた。
(暗殺者を殺して吸収した、この『魂』の使い方……)
頭の中の知識が、理を紐解いていく。
死体と魂の両方を組み合わせて使役する呪術――ラグナが両親に使用し、暗殺者たちを蹂躙したあの術
『屍鬼召喚』
基本にして最悪の死霊術であり、肉体のリミッターを解除した圧倒的な物理暴力を行使できる。
だが、死体がなく『魂』だけの場合でも、術は成立する。
『死霊召喚』
『霊禍招来』
ストックした魂をそのまま解き放ち、実体を持たない『ゴースト(死霊)』として召喚すれば、敵の精神を直接恐怖で苛む攻撃が可能だ。
さらに、吸収した複数の魂を無理やり融合・練成させれば、より上位の存在『レイス(霊禍)』へと変貌させる。
レイスは物理攻撃こそ効かないが、相手の魂そのものを直接削り取る破滅的な精神攻撃を繰り出すことができる。
ただし――それを行えば、蓄積した魂のストックを一瞬で使い切ってしまう。
(死体が使用できない時はゴースト……ここぞという局面ではレイス、か)
「……よし、先ほどの暗殺者の魂が1個、死体安置所の暗殺者たちの魂が8個。合計で9個のストック……」
指を折りながら、まるで財布の中の銅貨でも数えるかのように、殺した人間の魂を勘定している自分に――ハッと気がついた。
ぴたりと、川の中で足が止まる。
(ボクは……今、何を考えていた……?)
人間の命だ。奪ってはならない、かけがえのない魂だ。
それを、買い物で使うコインか何かのように『ストック』と呼び、使い道を計算していた。
ガタガタと全身が震え出し、手から乾パンがポロリとこぼれ落ちて川面を流れていった。
人を殺し、その魂を奪い、両親を怨嗟の炎で灰に変えた、血も涙もない悪魔に――自分はなってしまったんじゃないか?
「うっ……げほっ、おえぇぇ……ッ!!」
強烈な自己嫌悪と悪心がこみ上げ、ラグナは川の中で膝をつき、必死に吐き戻した。喉を突く酸っぱい胃液の味。
(……何をいまさら、怯えているんだ)
胃の中のものを吐ききり、荒い息を吐きながら立ち上がる。
ラグナは己の保身のために両親の遺体を死霊術で汚し、地獄の断末魔を聞きながら灰にした。そして自分の手を汚し、9人もの人間の命を奪った。
善良な人間? 被害者?
そんな温かい皮は、あの死体安置所でとうに剥がれ落ちている。
(ボクはもう、化け物だ。)
(だが、世界が理不尽な悪意で両親を奪い、ボクを追い詰めたというのなら――その理不尽を上回る『化け物』になって、生き残ってやる。両親を殺した本当の黒幕を引きずり降ろし、真実を暴くその日まで。)
倫理も、罪悪感も、すべて捨ててしまえばいい。勝つためなら、どんな泥だって喰ってやる。
どんぶらと闇の中に流れていく食べかけの乾パンを、冷めた目で見送る。
「……まずかったし、別にいいか」
ぽつりと呟いたラグナの顔は、感情の起伏を一切削ぎ落とされた、白い陶器のように冷たく無機質な表情へと戻っていた。
濡れたマントを締め直し、対岸の土手を踏みしめて鬱蒼と茂る『ヤルンヴィドの森』へと足を踏み入れる。
月光すら届かない樹海の闇。
疲れ切った身体で一歩一歩前へ進むラグナは、まだ気づいていなかった。
頭上の枝葉の隙間から、爛々と赤く光る怪しいふたつの眼光が、ラグナの無防備な首筋をじっと見下ろしていることに――。
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