第1話:蠢く遺体、破滅の途(ロード)
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冷たい石の感触が、手のひらからじわりと伝わっていた。
地下死体安置所。鼻を突く防腐薬の臭いと、湿ったカビの臭気が満ちる一角で、ラグナはただ呆然と立ち尽くしていた。
目の前の台座に横たえられているのは、ふたつの無機質な肉塊だ。
白い布から覗く顔は血気が失せ、土気色に染まっている。
「父さん……母さん……」
声が震えた。喉が引きつり、まともな音にならない。
信じたくなかった。
ふたりとも、アスガルド聖導国が誇る『聖騎士団』の正規隊員だ。決して弱くはない。それどころか長年戦場を共にしてきた夫婦揃っての連携技は、並の魔物など容易く討伐してみせるほど精悍だったはずなのだ。
それが、なぜ。
『任務中の不慮の事故』――教会が提示した死因は、あまりにも素っ気なく、不自然だった。
(嘘だ……父さんも母さんも、単なる魔物討伐で死ぬはずがない。国内で最近急増している『連続住民失踪事件』の調査に出ていたはずなのに……!)
両親を死に追いやった「何か」が存在する。だが、15歳のラグナにはそれが何なのか、何故ふたりが死ななければならなかったのか、何ひとつ知る由もなかった。圧倒的な無力感と理不尽な現実が、胸を締め付ける。
ラグナは縋るような思いで、ふたりの冷たくなった手をそっと握りしめた。幼い頃、大きな温もりで自分を守ってくれた、大好きな手だった。
その瞬間。
――カチリ。
脳内で、重苦しい鎖が弾け飛ぶ音がした。
「え……?」
両親の肌に触れた指先から、バチバチと粘りつくような漆黒の魔力が弾ける。
握りしめた手を通じて、禍々しい波動が逆流し、ラグナの脳髄へと直接流れ込んできた。両親が死の間際、己の身体に仕込んだ命懸けの術式だった。
意識の奥底で、革の装丁が朽ちかけた『一冊の禁書』が虚空に現れる。
重々しい音を立てて――パサリと、最初の『1ページ目』だけがめくられた。
残りのページは固く閉ざされたまま、記された歪んだ血の文字と魂を苛むおぞましい理が、奔流となってラグナの頭の中に怒涛のごとく流れ込んでくる!
『――深淵の門を開き、流転の輪から外れし魂を喚び寄せよ――』
『――理を穿ち、死者に束の間の呪肉を与えん……禁忌の秘法:死霊術『ネクロ・ライジング(屍鬼召喚)』――』
「がっ、あぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
頭骨が内側から割れるような激痛に、ラグナは頭を抱えて膝をついた。
死霊術。神話の時代より世界を汚す邪法として封印され、触れてはならないとされる禁忌中の禁忌。思案する余裕など微塵もなかった。
直後――バァンッ!
重厚な石造りの扉が、暴力的な衝撃と共に内側に吹き飛んだ。
「――チッ、子供がひとりか。死体とまとめて処理しろ」
「痕跡を残すな。速やかに処分しろ」
煙の中から飛び込んできたのは、漆黒の外套に身を包んだ4人の暗殺者たち。
毒を塗られた短剣が、容赦なくラグナの首筋めがけて一閃される。魔法学校で基礎しか学んでいないラグナの腕力では、避けることすら不可能だ。
生きたい。死にたくない。
そして、目の前で両親の遺体を踏みにじられることへの激痛のような怒り。
極限状態で、頭に刻まれた『禁忌の知識』が噛み合わさった。ラグナは条件反射のように叫んでいた。
『ネクロ・ライジング(屍鬼召喚)!!』
脳内を削られるような激痛と共に、術が発動した。
死体安置所全体が波打つ。黒い泥のような魔力が地面からあふれ出し、両親を含めた無数の死体へ吸い込まれていく。
「な、なんだ……!?」
暗殺者の手が止まる。次の瞬間、白布を押し破った父の遺体が毒刃を素手で受け止めた。
人間は肉体の破壊を防ぐため、脳が無意識に身体能力に制限をかけている。だが自己防衛を欠いた死者には、それがない。
ガキィィィンッ!
父の拳が暗殺者の胸骨ごと内臓を粉砕した。生前の聖騎士としての膂力を遥かに凌駕する、絶対的な理不尽の暴力。
それと同時に、母の遺体が関節の鳴る不気味な音を立てて弾けた。
関節の可動域すら無視した人外の速度で石壁を蹴り、天井を蜘蛛のように這うと、重力をあざ笑うかのような狂気的な立体機動で急降下する。
「なっ、上――ぐぁッ!?」
反応すら許されず、ふたり目の暗殺者の首筋が、ぬいぐるみを引き裂くかのごとく引き千切られた。
「ひっ、死体が……うぎゃあぁぁぁっ!?」
凄惨な蹂躙。バックアップの暗殺者4人が突入してくるも、父の圧倒的な破壊力と、母の人間離れした無軌道な立体奇襲の前に、わずか数分で全員が物言わぬ肉塊に変えられた。
静寂の中、ラグナは床にへたり込んだ。
その時、暗殺者たちの屍から、揺らめく蒼い燐光が立ち上り、ラグナの胸元へと吸い込まれていった。
(これは……彼らの『魂』……?)
暗殺者の放つ命の残渣が、ラグナの身体へと流れ込む。
それは単なる魔力の補給ではなかった。彼らがこれまで奪ってきた無数の命の重み、最期に抱いた執着、秩序と生の残滓が、器の中にドロリと沈殿していく。他者の人生の終わりを強引に呑み込み、自分の生命として塗り潰していくような、あまりにも冒涜的で哲学的な泥の味。
他人の命を喰らって、生き永らえる。
そのおぞましさと、両親を破滅的な化物に変えて殺戮を行わせた罪悪感が、一気に胃袋を突き上げた。
「うっ……オボぉぉぁぁっ!!」
耐えきれず、石畳に突伏して激しく嘔吐した。
耐え難い自己嫌悪の中、遠くから警備兵たちの足音が近づいてくる。
「集まってくる……消さなきゃ……!」
ラグナは頭の中の呪文を手繰り寄せ、死霊術を解除した。
その瞬間――地獄のような光景が訪れた。
術を解かれた両親の顔が、ギリギリと骨のきしむ音を立てて歪んだ。
瞳孔の開いた両目がぐにゃりと落ち窪み、眼球の裏側からどろりとした黒い体液が吹き出す。
『あああぁぁぁぁッ! 熱い、痛い、あいつが、暗闇が、喰ってくる……ッ!』
『助けて、ラグナ、身体が、脳が、壊れる……あぁぁぁぁッ!!』
それは声ではなかった。死界の底に囚われた両親の魂が発する、呪いのような叫びが直接脳髄へ叩き込まれてきたのだ。人の声とは思えない甲高い悲鳴と、肉を絞り上げるような断末魔の狂騒。
「やめてくれ……! 父さん、母さん、ごめんなさい、ごめんなさいッ!!」
ラグナは両耳を強く塞いだが、頭の中から響く叫びは止まらない。
青黒い呪詛の炎が両親の身体を包み込み、肉を焦がし、骨を砕く。
『狂った……世界が……お前も、死ね――ッ!!』
最期に耳を突いたのは、愛してくれていたはずの両親からの、あまりにも惨酷な怨念の声だった。
炎が消え去った後には、二つの小さな灰の山だけが残されていた。
「誰だ! そこで何が――」
階段から松明を持った警備兵たちが駆け下りてくる。
ラグナは血の海と灰の山を残し、叫びそうになる喉を狂ったように押し殺してその場から逃げ出した。
「待て! 泥棒か!?」
「おい、あいつ……服が血だらけだ!」
背後からの怒号を振り切り、死体安置所の非常口から地上へ飛び出す。
夜の街には、異変を察知した町の人々が溢れかえっていた。血に汚れ、正気を失った目で走るラグナの姿を、市民たちが息を飲んで見つめる。
「な、なんだあいつ……!?」
「聖堂から血まみれの子供が走ってきたぞ! 兵士さん、あいつだ!」
見知った街の人々の指差す視線と悲鳴から逃れるように、ラグナは裏路地へ飛び込み、入り組んだ暗闇をがむしゃらに駆け抜けた。
ハァ、ハァ、と荒い息を吐きながら、ゴミ捨て場の影に身を潜める。
ガタガタと震える手で膝を抱え、必死に息を殺した。
両親は死んでいた。ラグナはふたりを邪悪な死霊術で動かし、恐ろしい断末魔と共に灰に変えてしまった。
そして何より――街中に重々しい鐘の音が響き渡り、兵士たちの叫び声が響き渡る。
『通達! 地下聖堂を襲撃し、禁忌の術で人を殺めた凶悪な異端者が逃走中! 犯人は血に濡れた少年! 直ちに身柄を確保せよ!』
ボクが殺したんじゃない。暗殺者たちが襲ってきたんだ。
だけど、証明できるものは何もない。現場に残ったのは大量の死体と、両親の灰だけ。
教会の聖堂で人を殺し、異端の術を使った罪。
(たった一夜で、ボクは街を揺るがす「凶悪犯罪者」として指名手配されたんだ)
帰る場所も、信じてくれる者もいない。聖騎士団と謎の暗殺者の双方から命を狙われる絶望的な逃避行が、唐突に始まった。
(……ここにはいられない)
ラグナは路地裏を泥踏みするように抜け出し、街の防壁の隙間から命からがら脱出した。
向かったのは、街から離れた山中にある「廃鉱」だ。
幼い頃、ひとりになりたい時や両親に叱られた時に逃げ込んでいた、ラグナだけの秘密の場所。暗く湿った坑道に入り込み、ようやく荒い息を整える。
奥の小部屋には、昔使っていた古い資材が残っていた。
ラグナは血汚れを隠すために埃をかぶった『黒いマント』を引きずり出し、羽織った。さらに小さな革のカバンを見つけ、中に保存食の乾パンと水筒を詰め込む。
ふと、足元に落ちていた空の薬液瓶が目に入った。
ラグナはしゃがみ込み、廃鉱の床に散乱している発光鉱石――『月燐石』の砕けた微粉末を手で掬い上げると、必死にその瓶へ流し込んだ。
脳裏に浮かんだのは、魔法学校での錬金術の実習風景だ。
調合の材料を間違えて、派手に光っただけで教室中を混乱させてしまい、クラスメイト全員の目を眩ませて大騒動になったことがあった。
『またラグナがやったぞ!』
『ドジだなあ、お前は!』
当時はみんなに笑われ、冷やかされただけの失敗談。
だけど……これに魔力を込めれば、月燐石の急激な魔力反応を利用して、追っ手から逃げるための簡易的な目くらまし(フラッシュ・バン)として使えるはずだ。
(……あはは、笑えないや)
あの頃は、あんなに平和だった。
ドジを踏んで笑い合えていた、温かな日常。魔法学校の教室も、友達の笑顔も、温かい料理を待っていた家も……ボクはもう、あの頃には絶対に戻れない。胸を刺すような郷愁と絶望が、冷たく心を冷やしていく。
その時、一気に緊張の糸が切れた。
極度の疲労と恐怖、重なる心労で膝の力が抜け、ラグナは湿った床へ崩れるようにへたり込んだ。
視界がグラグラと歪む。意識が急激に遠のき、そのまま暗闇へ落ちそうになる。
(もう……疲れた……このまま……)
目を閉じかけ、意識が完全に飛びそうになった――その瞬間。
『助けて、ラグナァァァッ!』
『お前も、死ね――ッ!!』
脳裏に、あの禍々しい両親の断末魔と苦悶の顔が閃光のようにフラッシュバックした。
「はっ……ぁぁぁっ!?」
跳ね起きるように上半身を起こし、ラグナは荒く息を吐いた。冷や汗が全身から噴き出す。
目をつぶれば、あの声が聴こえる。死霊術という呪いを放った報いが、一生消えないトラウマとなって脳にへばりついていた。
逃げられない。眠ることすら、もう許されないのだ。
(ボクは……死体と人を殺した)
冤罪だろうと何だろうと、両親に二度目の死を与えた罪は消えない。
なぜ両親が死ななければならなかったのか。なぜあの暗殺者たちが現れたのか。すべての答えを得るまでは、死ぬわけにはいかない。
黒いマントのフードを深く被り、『月燐石』の粉末が詰まった小瓶を握りしめて、ラグナは立ち上がった。
だが――月光が差し込む坑道の入口に、一筋の影が立っていた。
「……見つけたぞ、脱兎」
漆黒の外套を揺らし、刃を構える女。死体安置所で倒したはずの暗殺者と同種の、冷酷な殺気を纏う刺客だった。
「聖導国を乱す異端者よ……などと、大層な御託はどうでもいい。お前が誰で、何をしたかなど興味もない。ただの仕事だ……ここで死んでもらう」
ラグナは握りしめた小瓶の感触を確かめた。
絶望的な逃避行の始まりを告げるように、夜の風が廃鉱を吹き抜けていった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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