第5話:甘言の馬車、偽りの名
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雨の降りしきる街道。ラグナは黒いフードの奥で冷たく爛々と瞳を光らせ、無言のまま警戒態勢を維持していた。
目の前に立つ二人組の護衛は、無警戒な子供を安易に騙せると思っているのか、どこまでも親切そうな笑みを貼り付けている 。
(……考えろ)
ラグナは深いフードの下で、目まぐるしく思考を巡らせた。
今の身体は右腕を噛み砕かれて激しく負傷し、体力も底を突きかけている。魔力もわずかしか回復していない。力任せにこの二人を殺すことも不可能ではないが、背後に控えるレイスの制限時間を無駄に削ることになる。
ここで目立つような騒ぎを起こせば、追手に居場所を露呈するリスクも跳ね上がる。
(なら――)
ラグナは冷徹に腹を括った。
傷ついた愚かで哀れな少年を演じてあえて騙されたフリをし、この者たちの懐に潜り込んでやろう。彼らの好意の裏にどんな邪心があろうと、逆に利用して怪我の治療と安全な移動手段を手に入れてやる。
「あ……あの……」
ラグナは怯えたように身体を小さく丸め、消え入りそうな声を漏らした。右腕をかばうように抱え、か弱さを前面に出す。
「乗せて……くれるの……?」
濡れた黒いフードの隙間から覗く、庇護欲を誘う儚げで整った顔立ち。雨滴に濡れる長い睫毛と、どこか性別の境目を曖昧にするような浮世離れした美貌に、無骨な護衛たちは一瞬呼吸を忘れ、生唾をのみ込んだ。野性的な欲情と美への気圧されが混ざり合った、歪んだ溜息が彼らの喉を鳴らす。
「おう! もちろんだ、さあ来い」
護衛たちは正気を引き戻すようにニヤリと口角を上げると、ラグナを促して馬車へと連れて行った。
近づいて初めて分かったが、その馬車は泥道には不釣り合いなほど上質な黒塗りの木材で仕立てられ、金箔の装飾が施された高級品だった。大貴族、あるいは莫大な富を築いた成功した商人クラスの所有物だ。
護衛が馬車の扉を叩くと、中から静かに扉が開いた。
「お入りなさい、寒かったでしょう」
車内から聞こえてきたのは、艶やかな甘い女性の声だった。
促されるまま馬車の中に視線を向けると、そこに座っていた女性の姿に、ラグナは一瞬息を飲んだ。
年齢は30代半ばほどだろうか。熟し切った果実のような豊かな肉体のラインを、薄手の豪奢なドレスに包んだ女性。引き締まった白い肌は若々しく輝き、蠱惑的な笑みを浮かべている。
(……きれいな人だ。でも――)
魔法学校の生徒だった頃のラグナなら、ただその艶やかな美しさに顔を赤らめていただろう。
だが、死体安置所の惨劇と死闘を潜り抜けてきた今のラグナには、一目で分かった。この女の瞳の奥にある、冷酷で計算高い暗い光。堅気の人間ではない。
「どうしたの? 泥を気にしておいでかしら。構わないわ、中へ入っておいで」
馬車の中は、一歩足を踏み入れるだけで溜息が出るような豪華な調度品とフカフカの絨毯で飾られていた。躊躇する素振りを見せながら乗り込むと、護衛たちが扉を閉め、御者台へ上って馬車を滑り出させた。
扉が閉まり、密室となった馬車内。
雨音だけが遠く聞こえる空間に、かすかに甘い香りが漂っていた。
それは安物の香油などではない。聖導国の上流階級しか手に入れられない最高級の香水。だが、相手を不快にさせない絶妙な薄さで漂い、男の鼻腔をくすぐり、理性を静かに解かしていく。
かつて無数の男たちをその肌と甘言で骨抜きにし、夜の世界の頂点へと成り上がった元娼婦ならではの、洗練された毒の香り。
馬車は揺れながら、ノルズ港を目指して街道を疾走する。
「私はヘカテ。ノルズ港で『黒猫の戯れ』というちょっとしたお店を経営しているの。貴方のお名前は?」
女主人――ヘカテが、脚を組み替えながら優しく問いかけてきた。
当然、本名を名乗るわけにはいかない。ラグナは一瞬だけ瞳を泳がせ、即座に偽名を口にした。
「……ロック。ボクの名前は、ロックです」
「ロック、ね。良い名前だわ。……こんな雨の夜に、そんな大怪我をして一人で街道を歩いているなんて、一体どうしたの? ご家族は?」
家族。その単語が脳髄を突いた。
灰となった父と母。頭の中で今も響く怨嗟の断末魔。
胸を刺す激痛に息が詰まり、ラグナは思わず右腕を強く抱きしめた。
「……いろいろ、あったんだ」
ぽつりと絞り出した言葉。
それ以上は何も言えなかった。だがヘカテは、ラグナの絶望に満ちた表情から何かを悟ったように、満足そうに目を細めた。
彼女は頬をゆるめ、食い入るようにラグナの全身を観察していた。
泥に汚れ、怪我に耐える華奢な少年。黒いフードの隙間から覗く、庇護欲を激しく掻き立てる儚げで可愛らしい顔立ち。
(……素晴らしいわ。売春宿の商品なんかにするのは勿体なさすぎる。怪我を治し、極上の服を着せ、私専用の可愛い愛玩動物にしてあげましょう……)
ヘカテの胸の内で、淫らな執着と欲情が急速に渦巻き始めていた。
「そう……辛いことを思い出させてごめんなさいね。ノルズ港に着くまで、少し休みなさい」
会話が途切れ、馬車内に沈黙が訪れる。
ヘカテは静かに目を閉じながらも、体内の熱を抑えきれずにいた。今すぐこの幼い少年を押し倒し、その華奢な身体を我が物にしたい衝動。だが、まずはその見苦しい傷を完璧に治させ、温かい湯あみをさせて小ぎれいに仕立て上げてからだ――と、彼女は溢れ出る欲情を必死に押し殺していた。
対するラグナは、ヘカテの内心のいやらしい企みにまでは気づいていなかった。ただ、「傷つき怯える無力な少年」という仮面を完璧に演じきれていることに心中で安堵しつつ、黒いフードを深く被り直し 、常に背後の不可視のレイスへ意識を向けたまま、静かに呼吸を整えていた。
数時間の後、馬車は雨の降る港町――『ノルズ港』へと到着した。
湿った潮風と魚の生臭さが混ざり合う繁華街の奥まった区画。
馬車が止まったのは、装飾過多な怪しい雰囲気を纏った大きな館の前だった。
馬車を降り、ヘカテと護衛たちに連れられて館の中へと入る。
その廊下を進む中で、ラグナは強烈な違和感と胸の悪さを覚えた。
薄暗い廊下を、煌びやかな衣装を纏った男女のペアが自堕落な笑みを浮かべて部屋へと入っていく。別の部屋からは、乱れた衣服のまま出てくる男女の姿。
(……ここは、娼館か)
厳格なアスガルド聖導国において、売春は神の教えに背く重罪であり、発覚すれば厳しい処罰が下される。つまりここは、法律の光が届かない『非合法の娼館』だ。
だが、嫌悪感と同時にラグナの頭は冷徹に回転した。
国家の法が届かない闇の領域。……追われている自分が身を隠すには、これ以上ない格好の環境だ。
やるべきことは山ほどある。右腕の治療、体力の回復、逃走資金の確保、そして何より 『魂のストック』。
(ボクを娼館の新商品にするつもりなら……逆にこの場所を、奴らを喰らい尽くして利用してやる)
ラグナの心の中に、暗い決意が固まった。
通されたのは、豪華な絨毯と調度品で埋め尽くされたヘカテの執務室だった。
ヘカテはソファーに深く腰掛けると、ついてきた護衛に向かって淡々と命じた。
「すぐに、私たちが贔屓にしている闇医者を呼んできなさい」
「えっ……ですが女主人様、もう夜も遅いですし、治療は明日の朝でも――」
護衛の一人が困惑気味に言いかけた、その瞬間。
ヘカテの瞳から笑みが消え、氷のように冷酷な眼光が護衛を射抜いた。
「……私の言葉が理解できなかったかしら?」
室内を一瞬で冷たく張り詰めた空気が支配する。
死線を潜り抜けてきたラグナにとっては、毒にも薬にもならない程度の威圧感だったが、この館にいる者たちには劇薬だった。
「ひっ……! も、申し訳ありません! すぐに連れてまいります!」
青ざめた護衛は部屋を飛び出していった。
ヘカテは冷めた顔でテーブルの上の銀のベルを取ると、軽く振った。
チリン――清廉で静謐な、澄み切った鈴の音が室内に美しく響き渡る。その音色は、この泥と欲に塗れた館にはあまりにもそぐわない詩的な美しさがあった。
音に応じて、ガチャガチャとドアが開き、小柄で大きな眼鏡をかけたメイド――が現れた。主人の気まぐれ一つで暴力を振るわれる恐怖からか、カタカタと全身を震わせ、眼鏡の奧の目を怯えで泳がせながら、一切ラグナと目を合わせようともしない。
「あの子に温かい食事を用意してあげて」
「は、はいッ! ただちに……っ!」
悲鳴のような返事を残し、メイドは一礼して部屋を後にした。
間もなくして運ばれてきたのは、焼きたての肉料理と温かいスープ、上質なパンだった。
ラグナはソファーに座り、不器用な左手でフォークとスプーンを握りしめた。
舌に触れる味は、魔法学校の食堂や家で食べていたものより遥かに豪勢で美味しかった。だが、ラグナにとって味はどうでもよかった。
これは生き残るための『燃料』だ。次にいつまともな食事ができるか分からない。ラグナは黙々と、胃袋へ食べものを流し込んでいく。
そんなラグナの姿を、ヘカテはソファーから愛おしそうに、……まるで新しく手に入れた高価な愛玩動物を眺めるような淫らな眼差しで見つめていた。
しばらくすると、息を切らした護衛が怪しげな男を連れて戻ってきた。闇医者だ。
医者はラグナの右腕の布を解き、傷口を検分すると顔をしかめた。
「……これは人間に付けられた傷じゃないな。凶悪な魔獣に噛み砕かれている。出血だけでなく、腕の骨にまでヒビが入っているぞ」
「傷跡一つ残さず直しなさい」
ヘカテが冷たく命じる。闇医者は困惑したように額の汗を拭った。
「そ、そんなことを言われてもな……! 骨と肉を繋ぐ回復魔法だけなら1回で済むが、傷跡まで完全に消すとなると、何度も魔法をかけ直す必要がある。魔力の消耗が激しい。数日はかか――」
「マジックポーションをいくらでも使えばいいでしょう。……今すぐ、完璧に治しなさい」
ヘカテの凄みに、闇医者は言葉を詰まらせ、ガタガタと震えながら治療の準備を始めた。
ラグナは肉を噛みちぎりながら、その光景を静かに冷めた目で見つめていた。
(……なるほどね)
この館の人間も、連れてこられた闇医者も、全員がヘカテという女の持つ『恐怖と暴力』によって支配されている。
ラグナはふと、魔法学校時代に異性の生徒たちから何度か告白された時の出来事を思い出していた。自分に対する好意や執着を隠しきれず、瞳を熱く濡らしていた当時の少女たちの表情――それがいま、ソファーの上から自分を熱っぽい眼差しで見つめるヘカテの顔に重なる。
自分に向けられた『異性としての気がある視線』。ラグナはその欲望の温度を鋭敏に察知し、心の中で冷たく微笑んだ。
理由や狙いまではどうあれ、ヘカテが自分に気があり、囲い込もうとしているなら、しばらくの間は手厚く保護されるはずだ。
この支配構造の隙を突き、自分に寄せられる欲望すらも毒として利用し、どうやってヘカテとこの娼館を自分の『糧』にしてやるか――。
ラグナは暗闇の中で、静かに次の策を練り始めていた。
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