第13話:歪みの契り、雷閃の咆哮
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潮騒が不気味な底鳴りを響かせる、南の隠し港。
木漏れ日すら届かない岩陰の桟橋から、一艘の小舟が静かに滑り出した。
櫂を漕ぐ音すら立てず、黒く濡れた岩礁の間をすり抜けていく。
つばの広い帽子を深めに被り、漆黒の防刃コートの裾を叩く風を受けながら、ラグナ――『ロック』は赤い瞳を小さく細めた。
可視の視界には誰もいない。だが、その背後には二体の『死霊』が影のように揺らぎ、無言のまま主の護衛へと従っていた。
(……ネメア・レオンの屍鬼を小舟に乗せられなかったのは痛手だ)
出航直前、防護壁の外縁に潜ませておいた巨獣を視界に収めた時のことを思い返す。
あの並外れた巨躯と過重を小さな木造舟に乗せれば、浮かべることすら叶わず即座に海底へと沈没するのが目に見えていた。ゆえに、今回はあの巨獣を伴わずに海を渡るほかなかった。
視界の先、複雑に入り組んだ浅瀬の霧の向こうから、荒々しい岩肌を晒した孤島が姿を現した。
『黒鮫の海賊団』のアジト。無法者どもが根城にする巣窟だ。
ロックは小舟を岩陰の砂浜へ静かに座礁させると、足音を殺して上陸した。
二体の『死霊』を先行させ、周囲の警戒網を探らせる。
だが――砂浜を離れ、島の中央へ向けて十歩ほど踏み込んだその瞬間だった。
ジャリ、と砂利を踏む小さな音が響くと同時に、周囲の空気の密度が一変した。
「――動きを止めな、ガキ」
低く濁った声。
次の瞬間、岩陰、樹木の死角、頭上の岩棚から、無数の殺気が一斉に跳ね上がった。
ゾクッと背筋を走る悪寒。
先行索敵させていた『死霊』の反応よりも早く、地形と風を完全に把握した海の猛者たちが、隙のない足さばきでロックを完全包囲していた。
手に握られているのは、錆びた曲刀や重厚な斧、取り回しの利くクロスボウ。
単なる下種な無法者ではない。数々の死線をくぐり抜け、泥を舐めて生き残ってきた傭兵顔負けの精鋭集団。
(なっ……!? 索敵をすり抜けた……!? 地形を完全に熟知しているのか……!)
ロックは呼吸を殺し、冷徹な思考を高速回転させた。
革カバンの中の硝燐鉱、あるいは月燐石の粉末を爆破させ、網を破るか。しかし、これほど肉迫した至近距離での多方向からの包囲網では、強行突破の生存確率は極めて低い。
逃げ道を探し、警戒の糸を極限まで張り詰めていたその時――海賊たちの間から、面傷のあるリーダー格の男が一歩前へ踏み出した。
「無駄な悪あがきはやめときな。お前の帽子の中の目……ただのガキの目じゃねえことは分かってんだ。……来い。頭がお前と話がしたいそうだ」
「……話?」
「そうだ。殺すなら上陸した瞬間に蜂の巣にしてる。……大人しくついて来い」
ロックは薄い唇を噛み締め、周囲の包囲網を冷酷に見回した。現時点で強行突破の不確定要素が大きすぎる以上、指示に従うのが最適解と判断する。
「……いいだろう。案内しろ」
岩盤をくり抜いて作られた、巨大な洞窟のアジト。
松明の炎が揺らめく奥の広間には、濃厚な酒の匂いと潮の香りが満ちていた。
長卓の奥、巨大な樽酒を前にどっかと腰を下ろしていた男が、重々しく首を巡らせた。
「……連れてきたか、バルバ」
男の佇まいに、ロックは無意識に息を飲んだ。
見上げるような巨躯。胸元を豪快に肌蹴させた皮膚には、光の加減で青みがかった硬質の鱗が覗いている。首筋にはエラ呼吸を可能とする薄いヒレ状のヒビが走り、人間と半魚人(水棲種)のハーフであることを雄弁に物語っていた。
『黒鮫の海賊団』の首領――エーギル。
その傍らには、半魚人であった亡き母の形見である武骨な三叉の槍が立て掛けられている。
「ほう……」
エーギルは巨大な角杯になみなみと注がれた強い酒をグッと煽ると、鋭い眼光でロックを見下ろした。
その視線は、つばの広い帽子の影に隠された白銀の髪、漆黒の防刃コート、自由を奪う鎖に抗うような冷たく澄み切った赤い瞳へと注がれる。
エーギルの胸の奥で、小さく熱いものが蠢いていた。
(……似てやがる)
言葉には出さない。だが、エーギルの脳裏をよぎったのは、かつて聖導国の身勝手な争いに巻き込まれ、理不尽に命を散らした己の幼い息子の面影だった。
絶望の底で世界を睨みつけ、足掻こうとしていたあの目と同じだ。
エーギルは角杯をドンと卓に置くと、豪快に喉を鳴らした。
「で……何の用だ、白銀のガキ。身の程知らずにも、ひとりで俺たちの首を刈りに来たのか?」
ロックは冷酷な眼差しを崩さず、静かに言い放った。
「ボクは暗黒街の掃除屋『ロック』だ。黒鮫の海賊団を処理しに来た……だが、その前に吐いてもらう。『赤い鉱石』について、君たちが何を知っている」
「……『赤い鉱石』だと?」
エーギルは鼻で笑うと、背もたれに深く体重をかけた。
「あんな胸糞悪い代物の話か。あれはな……ただの綺麗な石ころじゃねえ。生きた人間の命と血を限界まで煮詰め、泥のように捏ね繰り回して精製した過酷な触媒――『賢者の石』だ」
「命を結晶化した触媒……?」
「そうだ。己の魂を、別の用意した肉体へと移し替えるための触媒だ。教皇派のクソどもが裏で買い漁ってやがるのさ」
ロックの脳裏で、両親が残した手帳の暗号が一瞬で繋がった。
あの手帳に記されていた暗号と『アインヘリヤル』の影。両親は教皇派の禁忌の実験に関わり、あの不快な鉱石を追っていたのだ。
エーギルは酒を煽り、忌々しそうに唾を吐き捨てた。
「俺たちバイキングはな、己の足で立ち、戦場で血を流して死ぬことこそが最高の誉れと思って生きてる。病で倒れ、ベッドの上で腐って死ぬことすら無様で恥なんだよ。……だというのに、あの教皇のジジイは何だ?」
エーギルは傍らの槍を力任せに握り締め、激怒の咆哮を上げた。
「顔と名前を変えて世間を騙し、1000年も他人の肉体を奪い、若い命を泥のように踏みつぶしてまで自分の生に無様にしがみついていやがる! 誇りも何もなく、生き汚く他人の命を貪る……そんな奴が『神の代行者』気取りで俺たちを支配しようとしてるのが、反吐が出るほど許せねえんだよ!!」
「1000年も……肉体を乗り換えて生きている……!?」
ロックは衝撃のあまり呼吸を止め、絶句した。
聖導国の教皇ヘルモズが、世間には代々別の人間が就任していると見せかけ、裏で1000年間も他人の肉体を奪い続けているという狂気。人々の不老不死の概念すら逸脱したその化け物の存在に、ロックの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
「……なるほどな」
ロックが冷ややかに息を吐いたその時、エーギルがふと思い出したように首を傾げた。
「ところでガキ……あの街を裏で牛耳ってる娼館の姉ちゃんの配下か?」
「……ヘカテのことか?」
「そうだ! 俺たちがこの数ヶ月、襲撃して略奪してた船の件だ! あれは教皇派の補給船や密輸船だと思って襲ってたんだが……最近になって、あの船が娼館の偽装船だったって怪しい噂を聞いてな!」
「怪しい噂ではない。本物だ」
ロックが冷淡に言い切ると、エーギルは一瞬あっけにとられた後――
「ガハハハハハハハッ!! なんだと!? あの極上の酒や高級な絹を積んでた船は、娼館の姉ちゃんの偽装船だったのかよ!! 道理で教皇の犬どもの割にセンスがいいモノばかり積んでやがると思ったぜ!!」
お腹を抱えて大爆笑し始めた。周囲の海賊たちも苦笑いを浮かべている。
「ガハハッ! 教皇派の目を盗むために教皇派の偽装書類を使ってたんだな! 勘違いして襲っちまってたわけだ! 悪かったな、ガキ!」
エーギルは豪快に笑うと、足元に置いてあった重厚な木箱を引き寄せ、バカンと開けた。
中から取り出されたのは、革の鞘に収められた二本の美しい短剣だった。
「これを持っていけ。『神契の秘銀短剣』だ」
鞘から引き抜かれた刃は、深海の秘銀で鍛え上げられた透き通るような蒼白の光を放っていた。
「古き海戦において、互いに血を流し合い『義兄弟の契り』を交わしたふたりの真の戦士が、絆の証として一本ずつ分け持ったとされる伝説の秘銀短剣だ。……教皇派の豪華船から奪ったんだが、本来なら1本ずつ持つべきこの対の短剣を、2本揃えて娼館の姉ちゃんに渡してくれ」
エーギルは真剣な眼差しでロックを見つめた。
「教皇の目を盗んであの規模の偽装船を航行させてた度量と手腕……俺は高く買う。あの女の器なら、この2本を対で使いこなせるはずだ。俺からの謝罪と敬意の印だ!」
一目見て凄まじい価値と分かる秘銀の逸品。
それを惜しげもなく差し出すエーギルという男の太っ腹さと、筋を通す海の誇りに、ロックは小さく息を飲んだ。
(……この男、ただの無法者ではない)
そう確信した、まさにその瞬間だった。
――ズドオオオンッ!!
凄絶な爆圧とともに、アジトの天井が吹き飛んだ。
「――っ!?」
降ってくる岩塊と煙が吹き荒れるアジトへ、白銀の甲冑と黒の外套を纏う集団が微かな足音すら立てず、無感情に舞い降りる。
『我らは楽園の扉を開く、無情の鍵なり!』
整然と唱えられた冷酷な誓言。教皇直轄特務機関――『アインヘリヤル・審問班』。
前衛の審問官たちが引き抜いた剣は、鈍い銀色の光を宿していた。
ロックは牽制のため、潜ませていた二体の『死霊』の不可視を解除し、瞬時に解き放った。
だが――前衛のアインヘリヤルが一歩踏み込み、流麗で洗練された一閃を繰り出す。
ザシュッ!
不可視を解かれた『死霊』たちは、そのあまりに鮮やかな剣技の前に悲鳴すら上げられず、一撃のもとに切り裂かれて消滅した。
(なに……!? 物理攻撃が効かないはずの『死霊』が……! そうか、あの剣……『洗礼を受けた銀製の剣』か……!!)
対アンデッドに特化した聖銀の刃。
「くっ……!」
直後、死角から迫った別の審問官の斬撃が、ロックの右肩を襲った。
ガツンッ! と硬い手応え。漆黒の防刃コートが刃を完璧に弾き返したものの、殺す勢いで放たれた鋭い重圧は完全には殺しきれず、コートの上から肩の骨へズシンと響く強烈な衝撃が走る。ロックは床を低く転がり、着地した。
「野郎ども! 敵襲だあッ!!」
エーギルが母の形見の槍を閃かせ、迫る重装騎士の甲冑を豪快に穿ち払うが、敵は感情を持たぬ精鋭。海賊たちが次々と血矢を上げて倒れていく。
(『死霊』を失った……! だが、ここで死ぬわけにはいかない……!)
ロックは激痛に耐え、体内の『グラットン・ハイエナの魂』を消費した。
「……顕現せよ!」
床から立ち上る蒼白い寒気。新たな『死霊』が影のように現れ、目くらましとしてアインヘリヤルのひとりへ特攻する。
審問官のひとりが銀の剣を振り下ろし、突撃した『死霊』を一刀両断にした。
霧散する『死霊』の蒼い煙。だが――その消え去る煙のすぐ真後ろに、すでに単発式拳銃を構えた白銀髪の少年が肉迫していた。
体内の魔力を一気に体へと流し込み、『肉体強化』を発動する。銃身から伝わる凄絶な反動を強靭な腕力で完璧に抑え込む。
「――まずはひとり」
至近距離。放たれた重厚な弾丸が、吸い込まれるように審問官の首をぶち抜いた。
ドスッ、と肉と骨を激しく穿つ鈍い音が響き、血飛沫が盛大に吹き上がる。即死した刺客が崩れ落ちると同時に、ロックの胸元へ蒼白い光――知性の高い人間の『魂』が吸収されていった。
ロックは息を整えると、すぐさま倒れた刺客の死体へ向けて手をかざした。
(回収……! そして――『屍鬼召喚』!)
ドクンッ、と頭蓋の奥で猛烈な熱が弾けた。
知性の高い人間の死体を操る代償――死者の生前の未練や呪詛の念が脳髄を灼き焦がし、激しい眩暈と吐き気が襲いかかる。ロックは奥歯を痛いほど噛み締め、強大な理性でその呪詛を押し潰した。
死に絶えたアインヘリヤルの肉体が不気味に跳ね起き、生前の技量を保ったまま同僚であるアインヘリヤルへ襲いかかった。
「……被検体No.1800を確認。手筈通り排除する」
屍鬼化した仲間を見ても表情一つ変えず、淡々と冷酷な音声を放つアインヘリヤル。
その意味不明な言葉に、ロックは眉をひそめた。
(被検体……? 何を言っているんだ……?)
しかし、その死者をも動かす禁忌の光景を目撃した海賊たちが、一斉に不快感を露わにした。
「おいガキ!! 俺たちの目の前で、戦死者の魂と死体を汚すんじゃねえ!!」
緊張感が走る。味方からも刃を向けられかけたその時、ロックは蒼白な横顔で冷徹に言い放った。
「ボクは……ボクに敵意を向けた者しか殺さないし、その死体しか使わない。ボクに死体を使われたくなければ、ボクに殺気を向けるな」
絶対のライン。敵意を向けた者のみを復讐の糧として冷酷に処理する流儀。
エーギルはロックの冷たく澄んだ瞳を見つめ、大声で海賊たちを制した。
「――落ち着け、野郎ども!!」
「しかし頭っ!」
「教皇のジジイは、自分の死が怖くて他人の命を無様に奪うクソ野郎だ。だがこのガキは……己の身を削り、自分に牙を剥いてきた敵の命を喰らってでも、教皇を引きずり下ろすために足掻いてる戦士だ! それに『仲間の死体には触れない』と筋を通してやがる!」
エーギルは槍を豪快に突き出し、敵を見据えた。
「教皇の犬どもの死体なら、泥だろうがドブだろうがいくらでも喰らわせろ!! あいつらに誇りなど要らん!!」
共同戦線の協定が結ばれた瞬間だった。
「――行け」
ロックの指示とともに、解き放たれたアインヘリヤルの屍鬼が躍動した。
痛覚も恐怖もなく、生前のリミッターを解除された肉体。屍鬼は洞窟の壁や岩盤を獰猛に蹴り上げ、立体的かつ予測不能な軌道で空中を飛翔した。上空からの死角を突いた超人的な跳躍攻撃により、敵の防陣を粉砕する。混乱に陥ったアインヘリヤルを次々と血祭りにあげた。
直後、打ち倒された刺客たちの身体から溢れ出た3つの蒼白い『魂』が、吸い寄せられるようにロックの胸元へ吸い込まれていく。
「オオオッ! 押し込めぇッ!!」
海賊たちも死生観の垣根を越えて奮戦。嵐のような怒涛の連携でアインヘリヤルたちを倒していく。さらにエーギルが三叉の槍を閃かせ、圧倒的な腕力で凄絶な刺突を繰り出し、重装騎士二名を同時に貫いて絶命させた。
「外へ出るぞ!! 追撃だッ!!」
勢いに乗ったロックと海賊たちは、雪崩を打って洞窟のアジトから外へと飛び出した。
照りつける太陽の下。荒々しい岩肌と浅瀬の海が広がる孤島の大地で、一行は後方に退いていた隊長と、残るアインヘリヤル3名と対峙した。
「……ここまでの損害は想定外だ」
隊長は無感情な瞳のまま、懐から『透明な魔石』を取り出した。国宝級の価値を持つ、召喚魔石。
「――天に巡る雷雲よ、我が誓約に応え、破滅の鎚となりて降臨せよ」
パキィンッ! と魔石が砕かれた瞬間、天が裂けた。
バリバリバリグラアアアッ!!
晴れ渡っていた空が瞬時に黒雲に覆われ、天地を揺るがすような雷鳴とともに、空間に紫電を纏った巨大な『雷の精霊』が降臨した。
精霊が腕を振るった瞬間、極大の雷撃が大地を撃ち抜く。
「ガアアアッ!?」
ロックが操っていたアインヘリヤルの屍鬼は、直撃を受けて一瞬で粉々に粉砕された。
圧倒的な落雷の嵐。大岩が砕け散り、海の男たちが吹っ飛ばされていく。主力を失い、ロックとエーギルたちは一転して凄絶な劣勢へと追い込まれた。
「クソが……不味いな、精霊降臨かよ……っ!」
汗を流し、槍を構え直すエーギル。
だが、ロックは冷たく澄んだ瞳で海の向こうを見つめていた。
「……精霊はこちらで何とかする!」
ロックは革カバンのマジックポーションを一気に飲み干すと、単発式拳銃から空の薬莢を勢いよく排莢し、すばやく次弾を装填する。右手に拳銃、左手に微弱な魔力を注ぎ込むことで内部崩壊を起こす『硝燐鉱』を握り締めた。
「安心しろ……ボクの最高戦力が到着した」
直後。
ズシャアアアアアンッ!!!
浅瀬の海面が豪快に爆ぜた。
大量の海水と水煙を吹き上げ、跳び出してきたのは――全身から濁流を滴らせ、濡れた金色の毛並みを怒り狂わせる巨大な超重量級の魔獣。
暗い海底を泳ぎ切り、ついに追いついた『ネメア・レオンの屍鬼』!!
「ガアアアアアアンッ!!!」
咆哮一撃。水煙を吹き飛ばすと同時に突進し、残っていたアインヘリヤル3名を蹂躙、一瞬で肉塊にした。死体から浮き出た3つの蒼白い『魂』が、即座にロックの胸元へ吸い込まれていく。
圧倒的な破壊力を前にしても、アインヘリヤルの隊長は表情一つ変えない。
「……敵の増援か」
アインヘリヤル隊長が冷ややかに呟く。戦局が再び跳ね上がる。
「おっさん、隊長を叩け!」
「言われなくてもよぉッ!!」
エーギルが槍を閃かせ、アインヘリヤル隊長へ肉迫する。
ネメア・レオンは空中から降り注ぐ雷撃を巨体に似合わぬ野性の直感で回避しながら、精霊との距離を詰めていく。巨大な爪を振り下ろすも、雷の精霊は滑らかな滞空運動でその爪撃をかわす。
精霊が獅子の猛攻に気を取られたその一瞬の隙――ロックは『肉体強化』を体に巡らせ、単発式拳銃の引き金を引いた。
バンッ!
放たれた重厚な弾丸。だが、弾丸は精霊の表面を覆う『雷の衣』のような高密度の電磁障壁に弾かれ、空しく逸らされた。
「チッ……!」
雷の精霊は雷撃の威力を意図的に抑え、広範囲を灼く雷波を拡散放出させた。
「ガ……ッ!?」
回避しきれず広範囲の雷撃を浴びたネメア・レオンの皮膚が凄絶に焦げ付き、その巨体の動きがピタリと止まる。
間髪入れず、雷の精霊は両手を掲げ、周囲の紫電を一点に圧縮させて禍々しい『雷撃球』を生成し始めた。その冷酷な精霊の眼光は、はっきりとロック自身を標的として捉えていた。
(まずい……直撃すれば即死だ……!)
危険を察知したロックは、左手に握り締めた『硝燐鉱』へ瞬時に少量の魔力を流し込んだ。内部崩壊が始まり、過熱する。
精霊の手から放たれる、高密度の雷撃球。
それと同時に、ロックは爆発寸前の硝燐鉱を投げつけた。
ドカアアアンッ!!
空中での激突。過熱した硝燐鉱が凄絶な爆縮を起こし、雷撃球と相殺して大爆発を巻き起こした。
眩い爆炎と衝撃波。その隙を突き、焦げた身体を無理やり動かしたネメア・レオンが精霊へ躍りかかった。
巨大な前脚が精霊の胸元の核を深く穿ち、同時に精霊が放ったふたつ目の雷撃球がネメア・レオンの胴体を一直線に直撃した。
ドドドドカンッ!!
激しい光波とともに『雷の精霊』は光の粒子となって消滅した。
生命なき肉体だからこそ成し得た相打ち。
足元に横たわるネメア・レオン。下半身を失ったその肉体はただ力なく伏していた。
「……作戦変更。撤退する」
切り札を失ったアインヘリヤル隊長は、無感情のまま即座に身を翻して撤退を図ろうとした。
だが――。
ズリッ……ズリッ……!
「……!?」
下半身を失い、断ち切られた断面から体液を撒き散らしながらも、ネメア・レオンの上半身が、前脚だけで地面を這いずり、執念の眼光で隊長の足首へ喰らいつこうと特攻した。
隊長は即座に跳び下がり、間一髪でその顎を回避した。
――だが、その回避運動こそが、致命的な罠だった。
「ひっかかったな、教皇の犬がぁッ!!」
退路を完璧に読まれていた。回避した先で待っていたのは、三叉の槍を捨て、大腕を広げたエーギルだった。
ガチィッ!! と骨が鳴るほどの力で、エーギルが背後から隊長を羽交い締めに捕縛する。
「……拘束、解除不能」
「今だ、ガキィッ!!」
「――了解」
隙が生じたコンマ一秒。
ロックは走りながらコートの内ポケットからケースを取り出し、麻酔の入ったシリンジを引き抜こうとした。だが焦りと激闘の揺れで、一本のシリンジが手元から滑り落ち、岩肌に叩きつけられて砕け散った。
(チッ……残り一本……!)
ロックは残る一本のシリンジを握り直し、隊長の無防備な腹部へ深々と突き刺した。
「……っ……」
強力な麻酔薬が一瞬で全身の神経を麻痺させる。隊長の無感情な瞳から光が失われ、ガクリと膝から崩れ落ちた。
完璧な――生け捕り。
アジトの前に静寂が戻る。転がるアインヘリヤルの屍と、役目を終えて静かに動きを止めた魔獣の残滓。
エーギルは息を荒げ、気を失った隊長を床へ放り投げると、豪快に笑い声を上げた。
「ガハハハッ! 最高の連携だったぜ、白銀のガキ!」
エーギルは大きな手を差し出した。
「教皇の補給線は、俺たちが海上から叩き潰してやる。陸の不味い泥は、お前が噛み潰しな」
ロックはその巨大な手を、静かに握り返した。
「……ああ。協定成立だ」
海の戦士たちと結ばれた、絶対の裏同盟。
昼下がり。
太陽が南天に差し掛かり、街に温かな光が降り注ぐ時刻。
ノルズ港・東側の娼館『黒猫の戯れ』の門前に、ひとりの男がニヤけた顔で立っていた。
「ふふん……公務の経費を浮かせたこの金で、昼間から極上の女と遊ぶ……これぞ男の醍醐味というものだな」
聖導国捜索部隊隊長――レヴィ男爵。
胸ポケットの小銭をチャリンと鳴らし、ニヤニヤと品のない笑みを浮かべながら、重い木造の門をくぐる。
玄関ホールで出迎えたのは、右頬に深い傷跡を持つ護衛の男――ガレナスだった。
(……ほう。こいつは、あの小僧への刺客を放ったレヴィの豚か)
ガレナスは傷跡を歪め、一瞬で男の正体を識別した。だが、長年暗黒街で修羅場をくぐってきたベテランは、表面上は恭しく深々と頭を下げて見せた。
「……ほう、レヴィ男爵。本日は大変お早いお越しで」
「うむ! 今日はたっぷり楽しませてもらうぞ。最高の酒と女を用意しろ!」
「畏まりました。……常連様のご訪問だ、すぐに主へご挨拶に伺わせましょう。少々お待ちを」
「うむ、苦しゅうない!」
ガレナスは恭しく手配を済ませると、身を翻して奥の階段を速足で上がった。
執務室の扉を叩き、静かに報告する。
「――ヘカテ様。階下に“レヴィの豚”が到着いたしました」
「……あら」
煙管の煙をくゆらせていたヘカテが、妖艶な口元を酷く可笑しそうに歪めた。
「わざわざ向こうから、毒の杯へ飛び込んできたわけね。……ふふ、お出迎えして差し上げないと」
ヘカテは紫煙を優雅に吹き散らすと、艶やかなドレスの裾を揺らし、ゆっくりと階段を降りていく。
階下でニヤニヤと鼻の下を伸ばして待つレヴィ男爵の前に、死の罠を秘めた美しき主が現れる――。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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