第12話:真闇の沈黙、海原の猟犬
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『黒猫の戯れ』の3階、ヘカテの執務室と目と鼻の先にある一室。それがラグナ――『ロック』にあてがわれた自室であった。
街道沿いの廉価な宿屋とは比較にならないほど重厚で上質な調度品が並び、足元には厚手の絨毯が敷き詰められている。だが、その洗練された内装の裏には、暗黒街ならではの歪んだ機能が秘められていた。
クローゼットの扉を開き、奥に並べられた衣服をかき分けると、木目の壁にうっすらと細い切れ目が走っている。
隠し扉のロックを解除すると、そこには地下深くへと一直線に落ち込む暗い鉄梯子が隠されていた。外から泥と血で汚れた荷車を滑り込ませ、捕虜を運び込んだあの地下尋問室へと直通する、緊急避難用の裏通路である。
(……追手が踏み込んできた時のための逃走経路か。ヘカテらしい万全な設計だな)
ラグナは小さな息を吐き出し、隠し扉を閉じると、身を翻した。つばの広い帽子を脱ぎ、ベッド横のナイトテーブルへと静かに置くと、ゆっくりとベッドへ体を横たえる。
柔らかい羽毛の感触が身を包む。しかし、ラグナの神経は弛緩することなく、刃のように冴え渡っていた。
脳裏をよぎるのは、数時間前に執務室で交わしたヘカテ――スカディとの密談だった。
死霊術という創世の裏側に繋がる忌まわしい禁忌の力を明かした自分。
そして、ムスペリア魔王尊立国から送り込まれたスパイであり、魔族『サキュバス』としての真の姿を開示した彼女。
『ふたりだけの……秘密よ、ロック』
唇に残るあの妖艶で冷たい指先の感触。互いに隠し持った毒の刃を刺し違えるように見せつけ合い、絶対の仮面を剥ぎ取り合った。
だが、どれほど深き暗闇の誓いを交わそうと、ふたりが互いを「ロック」「ヘカテ」と呼び合う事実に変わりはない。それはお互いが己の本性を覆い隠し、どこまでも利害と覚悟で繋がり合う『冷徹な共犯者』であることを認識し続けるための、不可欠な符牒(合言葉)でもあった。
(……いつまでも感傷に浸っている暇はない)
猛烈な睡魔と脳を苛む疲労感が、波のように押し寄せてくる。
ラグナは呼吸を整えると、体内にストックされていた『グラットン・ハイエナ』の魂をひとつ、脳裏で静かに消費した。
ドクンッ、と頭蓋の奥で不快な熱が弾ける。
野獣の絶命の断末魔が魂の記憶とともに流れ込み、脳髄を焼き焦がすような眩暈と吐き気が襲う。ラグナは蒼白の面容を一切歪めることなく、奥歯を噛み締め、強靱な理性でその不快なバックラッシュを押し潰した。
床に立ち上る蒼白い寒気。不可視の怨霊――『死霊』が影のように顕現する。
「……屋敷内を巡回しろ。ボクに対して明確な『敵意』や『殺意』を持つ者が近づいたなら、即座に思考で報告せよ」
不可視の『死霊』は低く揺らぎ、指示を理解すると、壁を透過するように消え去った。
枕元に置いた銃の存在を意識しながら、ラグナはゆっくりと瞼を閉じた。
――悪夢は、漆黒の泥となって押し寄せてきた。
暗く湿った地下死体安置所。目の前で崩れ去る父と母の肉体。断末魔を上げて灰へと還るふたつの魂の叫び。
『なぜ、お前だけが生きている』
『化け物め。魂を凌辱し、死者を汚す悪魔め』
両親の虚ろな眼差しがラグナを凝視し、泥に塗れた骨ばった手が首筋へ伸びてくる――。
「――ロック様、大丈夫ですか……? 酷くうなされていらっしゃったので、お体が心配で……っ」
耳元で聞こえた、優しく掠れた声。
呼吸が荒く乱れ、全身にびっしょりと嫌な汗がへばりついている。死霊術のバックラッシュと悪夢の残滓に眉をひそめたその瞬間、ラグナの視界のすぐ真上に――異質な「何か」が存在していた。
至近距離。息がかかるほどの近さ。
大きな眼鏡の奥で、底なしの暗闇のように落ち窪んだ瞳が、じっと自分を見つめている。
「……マリア」
「あ……っ! す、申し訳ありませんっ、ロック様……っ!」
小柄な眼鏡メイド――マリアが、弾かれたように身を引いて体をすくませた。
両手を胸の前でギュッと握り締め、おどおどと肩を揺らしている。
ラグナは瞬時に身を起こし、腰の単発式拳銃へ手を伸ばしかけて――ふと動きを止めた。
(『死霊』が反応しなかった……?)
不可視の従者は部屋の隅の空中に漂ったままであり、ラグナに何の警告も発していなかった。
なぜだ。目の前で己の眠りを凝視していた怪しいメイドに対し、なぜ従者は警戒を発しなかったのか。
思考をめぐらせ、ラグナは冷酷な結論に至った。
(そうか……ハイエナの野性本能か)
素となったグラットン・ハイエナは、魔獣の中でも高い知能と野性の直感を持つ。その本能が「この女には殺気も敵意もない」と見抜いていたのだ。マリアの中にあるのは純粋な心配と好意のみ。それゆえ、『死霊』の警戒に引っかからなかったのだ。
(好意ゆえの距離の詰まりか。防ぎようがないな……)
心の中で冷ややかに溜息をつき、ラグナはベッドから脚を下ろした。
「別に構わない。……それで、何の用だ?」
「は、はいっ……! 地下の暗殺者の女のお方ですが……あ、あの、沢山お話をしてくださったので、何でも話してくれる状態になりましたの……っ! ヘカテ様にもすでにお伝えしておりますわ……っ!」
「……そうか」
マリアはおどおどとした口調のまま、可愛らしく小さく首を傾げて微笑んだ。
優秀な薬物知識と解剖学の心得を持つ彼女なら、プロの暗殺者から効率よく情報を聞き出す手腕があっても不思議ではない。ラグナは彼女を優れた尋問のスペシャリストとして素直に評価し、ベッドを降りた。
「すぐに地下へ行く」
「は、はいっ……! お供いたしますわっ……!」
マリアは頬を少し赤らめ、嬉しそうに照れながらラグナの横に並んだ。
屋敷の階段を降り、正規の廊下と頑丈な石造りの階段を抜けて地下尋問室へと向かう。
地下尋問室の重い鉄扉の前には、すでにヘカテと、見張りとして待機していたベテランの護衛・ガレナスが揃っていた。
ガレナスが右頬の傷跡を歪め、深く一礼して重い扉を開ける。
地下室には、充満する濃密な鉄と血の臭気が渦巻いていた。
中央の拘束台の上には、凄惨な試練を物語るように、闇医者の治癒魔法によって完全に塞がれたものの、幾重もの不気味な生傷の『跡』が全身に残された女ビーストテイマーが横たわっていた。
傷自体は癒えているものの、その瞳からは生きる意志の光が完全に奪われ、ただ虚空を虚ろに見つめている。
ラグナが静かに歩み寄ると、女テイマーの体がビクッと激しく痙攣した。
「ひ……っ、ひいいいっ……! た、たすけ……話す、全部話すから……っ! 私を雇ったのは、聖導国聖騎士団の……レヴィ男爵だ……っ! 直接指示を受けたんだっ! だから……お願いだから、あのメイドを二度と近づけないでくれえええっ……!!」
ラグナが問いただすよりも早く、折れ果てた女テイマーは狂乱した叫びを上げた。
限界を超えた苦痛と、死の淵から治癒魔法で何度も引きずり戻された恐怖により、プロの暗殺者としてのプライドなど微塵も残っていなかった。
「レヴィ男爵……?」
ラグナが眉をひそめたその時、背後で煙管の紫煙をくゆらせていたヘカテが、可笑しそうに喉を鳴らした。
「……ふふ、レヴィの豚かい。実にあの男らしいわね」
ヘカテは妖艶な口元を歪め、呆れたように首を振る。
「レヴィ男爵はね、うちの常連なのよ。裏で小遣いを稼ぐために怪しい男たちと接触しているのは知っていたけれど……あんな俗物が、教皇直轄の『アインヘリヤル』の構成員であるはずがないわ。ただの末端の捨て駒……都合よく使われている仲介人に過ぎないわね」
「……黒幕が、裏で糸を引いているというわけか」
ラグナは納得し、再び拘束台の女を見下ろした。
「『赤い鉱石』について知っていることを話せ。それと、ボクの両親――アルヴィスとヘーニルについて何を知っている」
「し、知らない……っ! 本当に何も知らないんだ……ッ! 私たちはただ『バイヤーの口封じ』と『鉱石の回収』、そして『現場の目撃者の抹殺』を命じられただけだ! 鉱石が何なのかも、お前の親のことも……何も知らされていないんだっ……! 信じてくれ、本当だっ……!」
女の叫びに嘘や偽りは感じられなかった。
これ以上、この女から得られる情報は存在しない。
ラグナは深く息を吐き出すと、視線を巡らせた。
「……ヘカテ、ガレナス。マリアもだ。一度、外に出ていてくれ」
「あら、処分はひとりでやるつもり?」
「ああ。手短に終わらせる」
ヘカテはラグナの冷徹な目をしばらく見つめた後、「好きにしなさい」とだけ言い残し、マリアとガレナスを連れて部屋を退出した。
重い鉄扉が静かに閉まり、密室にはラグナと、息を荒げる女テイマーだけが残された。
「お前……私を、殺す気か……?」
「――その方が楽になれるぞ」
ラグナの冷酷な言葉に、女テイマーの虚ろな瞳が微かに揺れた。そこには死への恐怖ではなく、奇妙な『安息』の色が浮かんでいく。
「頼む……殺してくれ……。あの狂ったメイドの元へ戻されるくらいなら……お願いだから、今すぐ殺して……っ!」
ラグナは無言のまま、コートの内ポケットから小さなケースを取り出した。
中に収められた二本のシリンジのうち、即効性の強力な毒薬が入った一本を慎重に抜き取る。
「……安心しろ。マリアの元へは戻さない」
ラグナの言葉に、女テイマーの唇が微かに綻んだ。
「あ……ありがとう……」
チクり、と首筋に針が刺さる。
薬液が注入された瞬間、女の瞳から急速に光が失われていった。苦悶の表情すら浮かべる間もなく、全身の筋力が弛緩し、命の灯火が静かに消え去る。
外傷を一切つけず、内臓や肉体を傷つけずに殺害する。
――それが、死霊術『屍鬼召喚』において、最も理想的な『最高品質の依り代(死体)』を確保するための絶対のロジックだった。
直後。
死に絶えた女テイマーの肉体から、蒼白い燐光――ひとつの『魂』が溢れ出した。
(……回収)
ラグナが胸元を開くと、その蒼い光は吸い寄せられるように体内へ吸い込まれていく。
背筋を走る冷酷な快感とともに、またひとつ、死霊術の弾薬となる魂のストックが蓄えられた。
「……無駄にはしない。お前はボクの駒として、復讐の糧となれ」
冷たい死体となった女の冷えた額に冷酷に言い捨て、ラグナはゆっくりと尋問室の扉を開けた。
尋問室を出ると、廊下で待機していたヘカテが煙管の煙をゆったりと吹き出した。
「終わったようね。……さて、ロック。成果を上げてくれたマリアに、何かご褒美(報酬)をあげたらどうかしら?」
「ご褒美、か」
ラグナは傍らに立つ小柄な眼鏡メイドへ視線の向きを変えた。
マリアは両手をモジモジと動かし、大きな眼鏡の奥の瞳を慌ただしく泳がせている。
「め、滅相もございませんっ……! わたしなどのような者が、ロック様からご褒美だなんて……っ! お役に立てただけで、わたしはもう幸せでございますっ……!」
おどおどと恐縮し、ペコペコと頭を下げるマリア。
ヘカテはその様子を傍らで見つめながら、艶やかな唇の端を可笑しそうに吊り上げていた。
(フフ……健気な恋心ね。でも可哀想に……)
ヘカテの胸中には、マリアに対するかすかな憐憫と、それを遥かに上回る『圧倒的な優越感』が渦巻いていた。
どれほどマリアがロックに尽くそうとも、ラグナの『死霊術の真実』と、己の『サキュバスとしての正体』という世界で最も重く禍々しい秘密を共有しているのは、自分ただひとりなのだ。
絶対の共犯者という揺るぎない絆の上に立つヘカテは、優越感を胸にニヤニヤと静観を決め込んでいた。
「いいじゃないの、マリア。ロックがくれるというのだから、素直に甘えておきなさい。……正当な労働への対価よ」
「は、はい……っ。ヘカテ様がそうおっしゃるなら……」
マリアは頬をぽっと赤らめ、上目遣いにラグナを見つめた。
(ロック様とご褒美……っ! ま、まさか、街でふたりきりのデート……!? いや、でもでもっ、わたしのような日陰のメイドがロック様のお隣を歩くなんておこがましすぎますわっ……! ああっ、でも、ロック様の腕に触れられたら……っ!)
頭の中で激しい妄想を暴走させ、顔を真っ赤に加熱させていたマリアだったが、やがてハッと正気に戻り、控え目に指を折った。
「あ、あの……! もし許されるのでしたら……屋敷の中で、ロック様と一緒に『朝食』を召し上がっていただけないでしょうか……っ?」
「朝食?」
あまりにささやかな要求に、ラグナは拍子抜けした。
「ああ、それくらいなら構わない。部屋へ運んでくれ」
「は、はいっ……! すぐにご準備いたしますわっ!」
マリアは飛び上がらんばかりの喜びを全身で表現し、パタパタと廊下を駆けて行った。
長卓の置かれた小さなサロンで、温かいスープとパンが並べられた。
向かい合って席につくと、マリアは緊張で背筋をピンと伸ばし、スープの匙を持つ手すら震わせている。
「……マリア。君の見事な知識のおかげで助かった」
ラグナがパンを千切りながら口を開くと、マリアは恥ずかしそうに肩をすくめた。
「は、はい……っ。昔から、人体の構造や神経の走り方、薬物の作用について学ぶのが好きでしたの……。そういうことを勉強するのが、わたしの唯一の特技でして……っ」
丁寧で大人しい口調のままさらりと口にされる知識に、ラグナは赤い瞳を細め、冷徹な思考を巡らせた。
(人体の構造と肉体の保存に精通している……なら、女テイマーの死体も扱えるか)
「マリア。一つ頼みがある」
「は、はいっ! 何なりとお言いつけくださいませっ!」
「さっきの女テイマーの死体だが……腐敗が進行しないよう、完璧な『防腐処理』を施してほしい」
ラグナの言葉に、マリアは少し不思議そうな顔をした。
死霊術『屍鬼召喚』において、体内に取り込んだ魂の保管期限は約5日間。だが、ラグナは冷酷に計算していた。
魂のストック制限時間よりも――『依り代となる肉体の腐敗の方が早い』という事実に。
死後数時間で目に見えない自己融解が始まり、二日も経てば腐敗ガスで肉体が膨張し、体液が漏れ出して崩壊していく。どれほど強力な戦士の死体であっても、筋肉が壊死して腐れば屍鬼としての運動能力は著しく下がる。死霊術の兵力を100%の性能で維持し続けるためには、肉体の腐敗を物理的に喰い止める「防腐処理」が不可欠だったのだ。
「かしこまりましたわ、ロック様! 薬品と防腐剤を使い、腐敗の進行を完璧に止めて見せます! お肌の張りも、生きている時と同じ状態に保ってみせますわ!」
「助かる。……丁寧な仕事をしてくれたら、またこうして一緒に食事をしよう」
「――っ!?」
マリアの瞳が、歓喜の涙で潤んだ。
「は、はいっ……! 頑張りますわっ! ロック様のために、一生懸命処理させていただきますっ……!」
鎖を繋ぐ必要すらない。
ひとすじの言葉と見返りで、優秀な技能を持つメイドの絶対の忠誠を完璧に掌握したことを確信し、ラグナは冷たく澄んだスープを口へと運んだ。
朝食を終えてサロンを出ると、待っていたヘカテが煙管から紫煙を吹き出し、ラグナに目を向けた。
「食事は済んだかしら、ロック? ……本題に入りましょう」
「黒幕の手がかりか?」
「ええ。両親の残した手帳にあった『赤い鉱石』……あの代物について調べていたら、面白い情報が手に入ったわ。かつてあの鉱石の競売が行われた際、貴方の両親の次に高値を付けて競り落とそうとしていた連中がいるのよ」
ヘカテは細い指先で、卓上の地図の一点を指し示した。
ノルズ港の南側の海、複雑に入り組んだ浅瀬に浮かぶ小さな孤島。
「ノルズ港を拠点にする外道ども――『黒鮫の海賊団』よ。大船では近づけない入り組んだ浅瀬を盾にして隠れ潜んでいるの。奴らは鉱石の入手に失敗した後も裏ルートで奪取を狙っていたらしいわ。……そして何より、奴らは私にとっても商売の邪魔になる鬱陶しいハエどもなの」
ヘカテの瞳に、魔族としての凶虐な光が宿る。
「私の商売敵の排除。そして貴方にとっては『赤い鉱石の情報の獲得』……利害は完全に一致しているでしょう?」
ラグナの脳裏で、冷酷な計算が弾けた。
(海賊のアジト……無法者の巣窟か)
断る理由など、どこにもなかった。
両親を死に追いやった鉱石の情報を引き出すため。そして何より――これから聖導国という巨大な敵と対峙するにあたり、強力な戦力となる『膨大な魂のストック』を一気に狩り集めるための、格好の狩場だった。
「引き受けよう。……海賊どもを全滅させればいいんだな?」
「フフ、頼もしいわね。……浅瀬を渡るための小舟なら、街の南側の隠し港に手配してあるわ。時間を置く理由もないでしょう? 準備が整い次第、すぐに出発しなさい」
「了解した」
決断は一瞬だった。ラグナはすぐさま準備に取りかかるため、自室へと足を向けた。
同じ頃。ノルズ港の北側に位置する一般的な宿屋『海風亭』。
朝日が差し込む二階のホールで、捜索部隊の隊長であるレヴィ男爵が、全7名の隊員を集めて地図を広げていた。
「諸君、昨夜の休息で全員の疲労も多少は和らいだはずだ。本日より、街での本格的な聞き込み捜査を開始する!」
レヴィ男爵は大げさに咳払いをすると、指を立てた。
「ノルズ港は広大だ。効率よく探るため、担当区画を分散する。北区画はバルドル君とシルヴィア殿。南区画と西区画は聖騎士をふたりずつ配置する。そして……東区画は、私ひとりが担当する!」
その割り振りに、即座に疑問の声を上げたのはエルフの聖騎士、シルヴィアだった。
「待ってください、隊長。昨夜、北門を潜った際、私は『東側』から微かに不快な気配を感じ取りました。あの区画には何かが潜んでいます。危険な東側は、私が行くべきです」
シルヴィアの指摘に、レヴィ男爵の額から一筋の冷や汗が流れた。
(くっ……! この鋭いエルフめ、余計な勘を働かせおって……!)
レヴィ男爵の目的はただ一つ。公務の経費を浮かせ、その金で東側の『黒猫の戯れ』へ遊びに行くことだ。シルヴィアのような目ざとい配下に東側をうろつかれては、自分の遊びと小遣い稼ぎの計画が台無しになってしまう。
レヴィ男爵は即座に表情を「思慮深い上官」のものへと切り替え、恭しく手を挙げた。
「シルヴィア殿、君の懸念はもっともだ。だがね……東側の区画には、昔から懇意にしている偏屈で気難し屋の情報屋がいるのだよ。知人である私ひとりならばうまく情報を引き出せる」
さらにレヴィ男爵は、隣に立つ少年――バルドルを指差した。
「それにだ、シルヴィア殿。バルドル君を見たまえ。彼はアスガルド聖導国の枢機卿の御子息であり、次期教皇候補の筆頭と目されるお方だ! 万が一にも彼に傷がついては、私の首が飛ぶどころの話ではない! 最も安全な北区画で、我が部隊最強の剣士である君がピッタリと護衛についてあげることが、この任務の至上命令なのだよ!」
「なっ……! レヴィ隊長、僕は自分の身くらい自分で守れます!」
バルドルが赤くなって反論するが、レヴィ男爵の理屈は正論の形をとっていた。
バルドルの高貴な身分と安全を引き合いに出されては、シルヴィアも強く反論できない。
「……わかりました。バルドル君の安全を最優先とし、北区画を探ります」
シルヴィアは渋々納得し、引き下がった。
胸中で完璧な言い訳だ!とほくそ笑むレヴィ男爵の企みなど、知る由もなかった。
昼下がり。バルドルとシルヴィアのふたりは、北区画の賑やかな商店街を歩いていた。
「まずは、バルドル君の剣を調達しましょう」
シルヴィアの案内で、ふたりは職人が腕を振るう大型の武具店へと入った。
先の激戦で刃先がボロ雑巾のように波打っていた細身の剣を預け、バルドルは店内に飾られた無数の武器を見渡した。
「あなたの腕力に見合った『大剣』を選びなさい」
シルヴィアのアドバイスを受け、バルドルが手に取ったのは、両手持ちの重厚な鋼鉄の『クレイモア』だった。
並の剣士ならば持ち上げることすら苦労する大剣。だが、バルドルが腕に力を込めると、まるで竹光のように軽々と持ち上がった。調子に乗ったバルドルがそのまま剣をブンと振りかざそうとすると――。
「――バルドル君。お店の中で剣を振り回さないでください。玩具ではないのですよ」
シルヴィアから冷ややかな眼差しでピシャリとお説教を喰らい、バルドルは顔を真っ赤にして慌てて剣を収めた。
「す、すみません、シルヴィアさん……! でも、すごくしっくり来ます!」
「……ええ。見事な構えです。その重厚な刃こそが、あなたの力を最大限に引き出すでしょう」
気を取り直して凛とした表情で褒めてくれるシルヴィアの横顔を見つめ、バルドルは不意に胸が跳ねるのを感じた。
(綺麗な人だな……。頼れて、強くて……。なんだかこうしてふたりで街を歩いていると……まるで、デートみたいだ……)
淡い恋心と浮ついた妄想に鼻の下を伸ばすバルドル。
しかし、お隣を歩くシルヴィアの心の中には、甘い感情など微塵も存在していなかった。彼女の青い瞳は冷たく冴え渡り、すれ違う通行人の視線や街の異変、そして昨日から消えない『東側の不快な気配』だけに冷徹な意識を注ぎ続けていた。
自室に戻ったラグナは、ベッドの上に用意した装備品を一つずつ並べ、冷徹な検分を始めていた。
敵は海賊の一団――数十名単位の無法者が根城にする巣窟だ。前回の単独戦とは比べものにならない過酷な混戦が予想される。ラグナはいつも以上に念入りで、徹底した出撃準備を進めていった。
「……よし」
右腰のホルスターに装着した単発式拳銃、予備の弾丸8発。腰帯の鞘に収めたナイフ、そして肩に斜め掛けした頑丈なロープ。それ以外のアイテムは、すべて革製の肩掛けカバンの中へと整然と収納していく。
ハイポーションとマジックポーションが一本ずつ。
遠方を索敵するための伸縮式の望遠鏡。
月燐石の微粉末で作ったお手製のフラッシュ・バンがふたつ。
催涙、毒、そして微弱な魔力を注ぎ込むことで内部崩壊を起こし、5秒後に凄絶な爆炎を散らす黒灰色の鉱石――『硝燐鉱』。
軍事国家ヴァルハニア連合共和国が兵器として開発し、国外流出を厳しく制限している極小の爆縮兵器だ。騎士道を重んじる他国からは「卑劣で野蛮な殺傷手段」と忌み嫌われている代物だが、ヘカテの手配によって闇ルートから買い揃えたこの不気味な石ころは、ラグナにとって完璧な戦術兵器だった。
麻酔のシリンジが二本納められたシリンジケース。
そして、水筒と携帯食料。
手元の備品を万全にパッキングし終えると、ラグナは革カバンのベルトを固く締め直した。
最後に上質な服の上から漆黒の防刃コートを羽織り、ナイトテーブルに置いていたつばの広い帽子を深めに被り直す。鏡に映るのは、白銀の髪を隠し、冷徹な殺気を孕んだひとりの狩人の姿だった。
(……来い、『死霊』)
思考の伝導とともに、二体の不可視の従者が影のようにラグナの背後へ寄り添った。
地下室で捕虜を見張らせていたグラットン・ハイエナの魂と、館内を巡回させていた魂――二体の『死霊』の意識をリンクさせ、不可視のまま己の護衛へと従える。
腰の単発式拳銃の冷たい感触。胸ポケットには両親の手帳。
体内には回収した魂のストックが牙を研ぎ、地下では防腐処理を施された屍鬼の肉体が待機している。
仮面を被り、泥を舐めてでも生き残る覚悟を決めた少年は、静かに歩みを進める。
両親を死に追いやった真相へ辿り着くため――次なる殺戮と刈り取りの舞台、海賊の蠢く孤島へ向けて。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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