愚か者
「えっ!ここを閉める!?」
「ああ」
驚きの声を上げた俺に対し、冷静な声色で珈琲を差し出してきたマスター。
ヤス兄とルカちゃんが別れてから、早いもので半年が経っていた。
今日は店の休憩時間に合わせ、1人でlooseに顔を出しに来ていたところだったが、マスターの衝撃的な発言で思わず大声を上げてしまった。
「まあ、閉めるっつっても閉店する訳じゃない。移転するんだよ」
「移転?別の所に店を移すってこと?」
「ああ、そういう事だ。まあ、何だ…今じゃ人気者になったやつらが昔ここで働いてたり、ライブやってた訳だしな。最近じゃファンの中でここが【聖地】みたいに扱われ始めて、ろくに注文もしない女性客が増えちまってな」
そんな事を言うマスターは「あ、いや別にお前らが悪いって訳じゃないからな。元々そういうコンセプトの店なんだ。こういう事はしかたない」なんて笑っている。
幸いなことに俺とユキの交際は週刊誌に撮られたり、ファンに察知されたりすることも無く順調だった。
その傍らで、looseがそんなことになっていたなんてつゆ知らず、呑気に珈琲を飲みに来ていたなんて。
「だからって……マスターにまで迷惑かけてたなんて、」
「迷惑だなんて誰が言ったんだ?お前らは気にしなくていいんだよ。ったく、いっちょ前に何言ってんだか」
大きな口で二カッと笑ったマスターの指が、俺のデコにペシっと少し強めに飛んでくる。
「いてっ……!」
「はは、お前はユキちゃんと音楽のことだけ考えてりゃいいんだよ」
マスターの言葉に口を尖らせながらデコをさする。
「…ちゃんと考えてるよ」
ユキと付き合って1年半。
この頃から本気でユキとの結婚についても考え始めていた。
ユキも去年応募したデザイナー応募のコンテストで、優勝とまではいかなかったが、優秀賞に選ばれ業界にも少し名前が知られ始めていた。
「ほれ、そうだ。俺の店の事なんかより、ユキちゃんデザイナーへの昇格話があるんだって?」
「いや、店なんかって……」
「まあまあ、いいじゃないか。こんなオッサンの店なんかよりも若人の活躍の方がよっぽど大事な話だ」
冗談めかして、そんな年寄りみたいな発言をするマスターは「俺の店は場所さえあれりゃできるんだ、大した問題じゃないさ」と笑っている。
「んで?デザイナーに昇格できそうなのか?」
「んー、一応そういう話が出てるとは聞いてるけど、今アシストしてるデザイナーの人が結構厳しい人みたいで。なかなか簡単にはいかなさそうなんだよね。ユキは独立したら売れるんじゃないかって俺は思うんだけど、……なかなか難しい業界なんだって」
「そうか……まあ、なんだ、お前もしっかりユキちゃんの事見ててやれよ」
「もちろん!……と、いうか俺的にはそろそろ結婚、とかも考えてたり……とか」
言っていて段々恥ずかしくなってきた俺は、少しゴニョゴニョと濁しながらマスターから目を逸らした。
「おお、七瀬にしては随分張り切った事考えてんだな」
「お、俺にしてはってなんだよ!」
「はは!そのままの意味だよ。まあ、でも結婚か。立場的にどうなんだ?大丈夫なのか?」
ヤス兄とルカちゃんの件から半年、俺たちはマスターにもあの件は話していないが、マスターは何となく察している気がする。
「事務所的には、アイドルじゃないんだから自由恋愛しても構わないってスタンスなんだけど……やっぱり最近のファンはどうしてもアイドルみたいな扱いする人が多いってのも否定できないのが現実かなぁ……」
「ま、だからここが聖地になってんだけどな!」
ははは!と笑うマスターは、同時に少し心配そうに俺を見た。
「だからこそ、身近な人こそよく見てあげなきゃいかんぞ」
マスターの言っている意味を、この時きちんと理解しているつもりだった。
だが、実際俺には何も見えていなかったんだ。
「うん、…でも変なバレ方するよりは、公式に公にすればファンも納得してくれるんじゃないかなって」
そんな根も葉もない自信で俺の幸せだけを考えてしまっていた。
「……そんな簡単にいくかねぇ」
俺の言葉に苦い顔をするマスターだったが、それすらも見えていなかったのかもしれない。
「そもそもバレるって言葉自体がちょっと気に入らないって言うか……別に悪い事してる訳じゃないのに」
「まぁ、それもそうなんだが……熱狂的なファンからすりゃ、裏切りなんて感じちまうんだろうな」
「そこは、俺らの曲でファンを納得させるよ!何もアイドル的目線のファンばっかりじゃないし!」
「ああ……でもな、七瀬」
「っと…、そろそろ行かないと……!」
時計を見ると、そろそろ店の休憩時間が終わる頃だ。
looseにもお客さんが来てしまう。
「あ、ああ……」
マスターが何か言いかけたのも気にせず、椅子から立ち上がると財布から珈琲代を出そうとした。
「代金は気にするな、またメンバーも連れて遊びに来てくれ。ほら、出るなら裏口使えよ」
「え、でも…悪いよ」
「なーにが悪いよ、だ。ガキが遠慮してないで、ほら行け行け。散々世話焼いた親戚のジジイみたいなモンだろ」
「はは、ありがとう。じゃあまた、次はユキやみんなも連れてくるよ」
「ああ、そうしてくれ」
そんな言葉を交わして裏口から店を出た。




