9.リタ、兄に結婚の報告をする
「へえ、結婚……」
兄が実家に顔を出したのは、三ヶ月ぶりだった。
前回は春先。
職場の異動があった直後だった。
それまで兄は、ブラック企業顔負けの勤務時間で働いていた。
もともと体力も気力もある人だが、それでも見ていて心配になるほどやつれていた。
学生時代は文武両道。
王立学院でも稀代の秀才と呼ばれた人。
けれど、その兄でさえ疲れ果てるくらい、以前の部署は過酷だったらしい。
今は王家直属の財務管理部署から、王太子たち直轄の事務局へ配置換えされている。
忙しさそのものは相変わらずだが、以前よりは多少ましになったと聞いていた。
兄は王立学院を次席で卒業し、そのまま王家に仕えた。
平民であっても、ごく一部の優秀な人材は王国の中枢に入ることがある。
兄はその数少ない一人だった。
しかも、ただ優秀なだけではない。
王立学院時代、双子の王太子と同級生で、何かと問題を起こす二人の尻ぬぐいをしていたらしい。
結果、王家の人々から妙に気に入られ、そのまま引き立てられるように今の立場にいる。
そんな兄が、珍しくまとまった休みを取って帰ってきた。
父の焼いた、バターの香りがするやわらかなパン。
それを食べながら、ゆっくり紅茶を飲んでいる。
そこへ、リタが結婚の報告をした。
そして出たのが、冒頭の一言だった。
「兄さん?」
「ああ、いや」
兄はノンフレームの眼鏡を押し上げる。
だが、その手元が少しだけ乱れていた。
眼鏡がずり落ちそうになっている。
こんな兄は珍しい。
「そうだよな。リタも、もう結婚しておかしくない年齢だ。話そのものは珍しくない。ただ……少し急すぎて、驚いただけだよ」
「ごめんなさい。急に決まった話だったから」
リタは昔から、兄に対してどこか遠慮があった。
兄は優秀だった。
あまりにも。
王立学院に入る前、地元の学校に通っていた頃から、兄は「神童」と呼ばれていた。
周囲の期待を受けて、しかもその期待以上の結果を平然と出してしまう人。
地元の誇り。
地域の希望。
そんな兄のあとを追うように学校へ通ったリタは、どうしても比較され続けた。
リタなりに頑張っても、兄には届かない。
それは当然のことなのに、周囲はそうは見てくれない。
結果、リタには「凡人の妹」という空気がまとわりついた。
兄は何も悪くない。
両親も責めたりはしなかった。
けれど、リタの中に劣等感だけは残った。
幼い頃は、兄が大好きだった。
頼もしくて、かっこよくて、尊敬していた。
でも、いつからか少しずつ距離ができた。
気づけば、よそよそしい話し方になっていた。
敬語が混じることすらある。
今さら昔みたいに甘えることもできず、兄妹なのにどこか他人行儀。
「で、お相手は?」
兄がカップを置く。
「同じ職場の上司です。今は仕事を辞めて、家を継ぐことになったそうで」
「家を継ぐ?」
兄は少しだけ眉を上げた。
「自営業か。リタは大丈夫なのか?」
その問いに、リタは一瞬言葉に詰まった。
大丈夫……?
その意味がよくわからない。
自分はどこにでもいる町娘だ。
たまたま仕事で出会って、縁ができただけ。
才能も、特別な資格もない。
「……それは」
「同じ自営業でも、家ごとのやり方はあるだろう。何を売っている家なんだい?」
思考が一瞬止まる。
兄は当然、商店街の誰かだと思っているのだ。
リタと同じような立場の相手。
それが自然な想像。
「ええと……手広くやっているみたいで。ごめんなさい、今度ちゃんと聞いておきます」
言ってから、自分でも苦しいと思った。
兄に「貴族と結婚する」なんて言いにくい。
きっと必要以上に心配される。
身分違い。
自分でもわかっていること。
「でも、リタの職場に釣り合う年齢の男性なんていたかな」
兄が首を傾げる。
「名前は?」
「ミハイル・マートンさんです」
その瞬間、兄の表情が変わった。
「……ミハイル?」
「兄さんも知ってる?」
「図書館の主か」
「図書館の主?」
「いや、仕事ができるという意味で――いやいやいや!」
いきなり首を振り始める。
珍しく取り乱している。
リタは不安になる。
「兄さん?」
「そのミハイルって……あのマートン家の?」
「はい。お兄さんが亡くなって、家を継ぐことになったそうです」
「ああ……だから辞めるのか」
兄はぶつぶつ言う。
「辞めろと言っても辞めなさそうな男だと思っていたが、家督なら仕方ないか……いや、だが……」
歯切れが悪い。
やはり問題があるのだろうか。
「兄さん……」
「いや、わかってる。悪い噂は聞かない。浮いた話もほとんどない。そこは安心材料だ」
兄は真剣な目でリタを見る。
「ただ、リタ。本当にそれでいいのか?」
「え……?」
まっすぐな問い。
心配しているのが、よくわかる。
兄の髪は栗色で、少し色素が薄い。
瞳は明るいとび色。
母似の整った顔立ちに、父譲りのしっかりした体格。
気品があって、いかにも優秀そうな人。
その兄が、珍しく感情を滲ませていた。
「館長は……きっと大切にしてくれると思います」
それが、今のリタに言える精一杯だった。
「それはそうだろう」
兄は即答した。
「だが、年齢差がありすぎないか?一回り近く違うだろう」
兄より年上の館長。
けれど、年齢差を意識することはほとんどなかった。
話し方は穏やかだし、リタに合わせてくれる。
一緒にいて自然だった。
「大丈夫だと思います」
兄はしばらく黙り込んだ。
「……リタは強く言えない性格だからな。こちらでも少し探っておくか」
小さな独り言。
「あいつらの手を借りるのは癪だが……」
こうなると兄はしばらく戻ってこない。
考え事の世界に入る。
リタはそれをよく知っていた。
「じゃあ、兄さん。私、部屋に戻るね」
「リタ」
呼び止められる。
兄の声は、さっきより少し柔らかかった。
「幸せになってくれ。できる限り、力になるから」
「……ありがとう、兄さん」
そのとき、兄の目が少しだけ潤んでいるように見えた。
でも、気のせいだろう。
兄はいつでもクールで、仕事ができて、タフな人だ。
王家直属の補佐官として出世競争の中にいても、平民という立場に負けない人。
自分とは違う。
だからこそ、余計な負担はかけたくない。
リタはそのまま自室へ戻った。
引き出しを開け、少しずつ片付けを始める。
その一方で。
リビングに残された兄は、深刻な顔でひとり呟いていた。
「ミハイル……女に興味がなさそうだったが……まさか……」
真顔。
「かわいい妹をよくも……絶対に尻尾をつかんでやる」
クールな顔の裏で、静かに燃える怒り。
リタの兄、ラルフ・マーセル。
自他ともに認める、立派なシスコンである。
――それを知らないのは、リタだけだった。
ラルフは手元のメモを引き寄せると、使える人脈を頭の中で素早く並べ始めた。
情報収集開始。その悪そうな表情は、完全に仕事の顔だった。




