8.リタ、貴族の館へあいさつに行く 2
「まあまあ、リタさん。ようこそいらしてくださいました」
通された広間には、ひときわ目を引く夫婦がいた。
鮮やかなイエローのドレスをまとった貴婦人。
立派な口ひげをたくわえた紳士。
婦人はリタを見ると、ぱっと花が咲くように微笑んだ。
ふわりと香る花の香水。
甘いのに、くどくない。やわらかい香り。
まるで春そのもののような人だった。
「リタ、母と父だ」
館長が二人の前に立つ。
婦人はすぐに立ち上がり、優雅に礼をした。
けれど、もう一人の紳士は椅子に座ったまま、そっぽを向いている。
「は、初めまして。お招きいただき、ありがとうございます。リタ・マーセルです」
声が少し上ずる。
婦人はにこやかに口を開いた。
「初めまして。わたくしはミハエルの母、オーロラ・マートンです。そこに不機嫌そうにしているのが、夫のリッカルド様」
「別に不機嫌ではない!」
「父上」
館長の低い声。
オーロラは困ったように、それでも優雅に微笑んだ。
「旦那様。せっかくミハエルさんがフィアンセを連れてきてくださったのですから、そんなお顔をなさらないで」
たしなめるような視線。
しかしリッカルドは不満を隠さない。
「フィアンセなど認めるつもりはない。どこの誰ともわからん娘と……」
空気がぴんと張る。
リタは思わず背筋を伸ばした。
やっぱり、そう簡単ではない。
平民の娘が貴族に嫁ぐ。
反対されない方がおかしい。
けれど。
「まあまあ」
オーロラはあくまで明るい。
「ミハエルさんは今年で三十五歳ですのよ。結婚願望など皆無だった息子が、恋愛結婚で十も年下の方を連れてきてくださるなんて。それだけで、わたくしは嬉しくて」
なぜか目元にハンカチを当て始める。
たしかに館長は、結婚に興味がないどころか、以前は結婚そのものに否定的なことを言っていた気がする。
人生の墓場だとか何とか。
「それとこれとは別だろう、オーロラ。相手は貴族ですらない」
「旦那様、リタさんはとても優秀とうかがっておりますわ。わたくしと同じ学校だったそうじゃない?」
オーロラが館長を見る。
館長は小さく頷いた。
「はい。リタは王立女子学院を優秀な成績で卒業しています。王立図書館にも学院から推薦がありました」
「まあ」
「加えて、リタの母上も同校の卒業生です」
リタは目を瞬いた。
母が王立女子学院?
知らなかった。
「リタも知らなかったかもしれませんが、リタの母上は女子で初めて王立図書館で役職に就いた人物でした。当時としては最年少で、王都では少し話題になったそうです」
「女子で初めて……」
オーロラが目を見開く。
「まさか、エラさんかしら?算術がとてもお得意で、素敵な楽器を演奏なさる方」
リタは混乱した。
母の名前はたしかにエラだ。
結婚前に働いていたことは知っていた。
でも、それが王立図書館だったことも、そんなに優秀だったことも知らない。
「エラさん、覚えておりますわ。わたくしも何度かお話ししましたの。子爵家や男爵家で家庭教師もされていましたし……まあ、あの方の娘さんなのね」
「ふん」
リッカルドが鼻を鳴らす。
「少し頭がいいから何だという。平民は平民だ」
その瞬間だった。
「父上」
館長の声が、わずかに低くなる。
笑っているようで、笑っていない目。
リタはその表情を知っていた。
大切な本を乱暴に扱われたとき。
謝罪も反省もなく、それを当然のように流されたとき。
館長はこういう顔をする。
「申し上げたはずですが」
声は穏やか。
だが、圧がある。
「父上が約束を守ってくださらないのなら、こちらも約束を守る必要はないと考えますが」
「ぐ……!」
リッカルドが息を呑む。
館長は本来、饒舌な人ではない。
本を読んでいられれば満足という顔をしているし、感情の起伏も表に出ない。
口調は少し乱暴でも、基本は静かで、女性には優しい。
だからこそ、この怒りははっきり伝わった。
リタはふと、以前図書館で見かけた貴婦人のことを思い出した。
美しいが、いつも顔色が悪く、目に光がなかった人。
仕事のできる子爵とお似合いだと言われていたのに、結局体調を崩し、離縁したと風の噂で聞いた。
表面の立派さと、心の温度は違う。
館長は見た目こそ地味で、目の下にはクマもある。
愛想だってそれほどない。
でも、この人の瞳の奥には、いつもあたたかさがある。
怒鳴らない。
威嚇しない。
それなのに、ちゃんと守ってくれる。
「貴様、親を脅す気か!」
「脅しているのは父上の方でしょう。リタの前です。これ以上話をこじらせるなら、私は荷物を持って出て行きます」
「仕事も辞めたのにか?家を継がずにどうする!」
「雇いたいという貴族は何人かいます。家庭教師でも、文字書きでも、何でもやりますよ」
淡々とした口調。
けれど、その決意は本物だった。
「リタには苦労をかけるでしょうが」
話の展開が速すぎる。
リタはただ、館長の隣に立つしかなかった。
本来なら、自分が身を引けば済む話ではないのか。
どうして館長が家を出る話になるのだろう。
「か、館長……」
不安が滲む。
その気配を察したのか、館長はそっとリタの頭を撫でた。
「リタ。もし少しの間無職になっても、食わせてくれるか?」
「えっ」
思考より先に、口が動く。
「は、はい……わたしが働けばいいだけですし。父に言えば空き部屋も貸してもらえると思います」
「やっぱり頼りになるな」
「本当に困ったら、パン屋を継げばいいと思います」
言ってから、はっとする。
仕事で鍛えた癖。
館長が今求めている答えを、反射的に返してしまった。
空気。呼吸。視線。
長年そばにいたせいか、この人が何を望んでいるのか、なんとなく分かることがある。
――でも。
(冷静に答えてる場合じゃないのに……!)
今の会話、どう考えてもおかしい。
まるで自分が館長を大好きで、館長のためなら家出同然の生活も受け入れるみたいではないか。
そこまで熱烈な恋人同士に、いつなったのだろう。
自分の認識と、現実の会話が噛み合っていない。
「リッカルド様」
今度はオーロラが口を開く。
柔らかい声。
だが、そこには強さがあった。
「わたくし、これまで旦那様に逆らわずにまいりました。でも、もう我慢はやめます」
「オーロラ!」
「残された、たった一人の子どもですもの。たとえ旦那様が縁を切るとおっしゃっても、わたくしは会いに行きますわ。ミハエルさんがパン屋をなさるなら、常連になりますし、貴族の友人たちにも広めます」
オーロラの目に、うっすら涙が滲む。
「息子二人に先立たれて、それでもまだ意地を張るのですか。わたくしには、母としての矜恃があります」
その言葉に、リッカルドは明らかに狼狽えた。
見た目は厳格な老人でも、どうやら夫人の涙には弱いらしい。
リタはただ、立ち尽くしていた。
自分が何を言うべきかも、どこに立つべきかもわからない。
そんなリタの腰に、館長の手がそっと添えられる。
「リタ、大丈夫だ」
落ち着いた声。
「父上も、きっと理解してくださる」
「……は、はい」
とりあえず、頷くしかない。
その後、リッカルドはオーロラの機嫌を取るように何か話し始め、最初の挨拶は結局、どこか宙ぶらりんなまま終わった。
(これで、いいのかな……)
帰り道、リタは何度もそう思った。
館長はまだ引っ越しが済んでいないらしく、職場の近くの家へ戻るという。
実家に帰ると、両親から義理の両親について聞かれた。
けれど、うまく説明できず、リタは曖昧に頷くだけだった。
波乱のプロポーズから、二ヶ月。
それでも物事は、少しずつ前へ進んでいた。




