7.リタ、貴族の館へあいさつに行く 1
「リタ、顔が強ばっているぞ。大丈夫か?」
思わず頬に触れる。
(笑ってるつもりなのに……)
昨晩、鏡の前で何度も練習した。
自然に笑う練習。
けれど、もともと愛想がいい方ではない。
楽しいときは笑う。
でも声を立てることは少ない。
表情を出すこと自体、少しだけ恥ずかしい。
難しい顔のまま固まるリタを見て、館長が小さく笑いをこらえる。
そして、ぽん、と頭に手を置く。
あたたかい手。
(こんなときでも、優しい……)
少しだけ、呼吸が戻る。
「確かに貴族らしくはあるが。うちはそこまで堅苦しくない。気にするな」
「そんなこと言っても……気になりますよ!」
庶民。
それも、ごく普通の庶民。
貴族とは違う世界の人間。
館長とは職場を通じてで知り合ったくらいで、本来は関わらない存在。
リタは平民だが、王立学院にも入っていた。
そこで最低限のマナーや礼節、教育を受けた。だから王立図書館へも就職ができた。
もしあの学校に入っていなければ。
一生、交わらなかった世界。
だから、結婚なんて――想像もしていなかった。
「倒れたらすみません……」
冗談ではない、本気の不安。
前世で言えば、普通の会社員が、突然名家に嫁ぐようなもの。
(身分違いって言われたら……)
胸が締まる。
呼吸が浅くなる。
今日のネイビーのワンピース。
少しだけ背伸びして買ったもの。
首元のパール。
母から譲られた、大切なもの。
「倒れたら支える。安心しろ」
さらりとした言葉。
優しい。
でも、“倒れる可能性”は否定しない。
(やっぱり顔色悪いのかも……)
歩く。
王都中心部。
貴族の邸宅が並ぶ地区。
一つ一つが大きい。
人はほとんど歩いていない。
馬車、車。
静かな空気。
歩いているのは、使用人や商人。
(こんな場所、来たことない……)
世界の違い。
同じ王都でも、まるで別の国のよう。
「ほら、あれだ」
館長が指差す。
大きな屋敷。
古いが、重厚。
「立派です……」
「そうか?図書館の方が大きいだろう」
比較対象が違う。
思わず小さく苦笑。
(やっぱり感覚が違う……)
門の前。
館長が呼び鈴を押す。
しばらくして、扉が開く。
現れたのは、白髭の執事。
整った所作。
落ち着いた佇まい。
「ようこそお越しくださいました。ミハエル様、リタ様」
低く、よく通る声。
自然と背筋が伸びる。
「シュバルツ。彼女がリタだ」
「承知しております。大切なフィアンセと伺っております」
――フィアンセ。
その言葉だけで、頬が熱くなる。
知らなかった。
こんなふうに紹介されていたなんて。
「リタです。よろしくお願いします」
とにかく頭を下げる。それしかできない。
「どうぞお気遣いなく。シュバルツとお呼びください」
洗練された所作。無駄がない。
これが、貴族社会。
(すごい……)
館長も貴族のはずなのに。
日常では、まったくそう見えない。
あまりに普通で。
あまりに自然で。
「母さんと父さんは?」
「お待ちでございます」
ざっくばらんな会話。
それとは裏腹に、リタの緊張は増していく。
「リタ、顔」
「え……」
そんなにひどいのか。
館長が吹き出しそうになる。
そしてまた、頭に手。
そっと、撫でる。
……あたたかい。安心する。
人に触れられるのは苦手なのに。
この人だけは、違う。
前世も、今も。
恋人はいなかった。
誰かに近づくことが怖かった。
傷つくのが、怖かった。
だから、本を選んだ。
本なら裏切らない。
本なら傷つけない。
物語の中なら、恋もできる。
旅もできる。
安全な世界。
――でも。
「大丈夫だ。お前ならできる」
この声。
どこかで聞いた気がする。
遠い記憶。
曖昧な感覚。
「はい……」
自然と頷く。
自分に自信はない。
でも選ばれたのは、自分。
なら、やるしかない。
前を向く。
扉が開く。
広い廊下。
静かな空気。
そして――広間へ。




