10.リタ、館長のうわさを聞く
「へえ、まだ挙式の準備は進んでないんだ」
昼休み。
職員用の休憩室で、リタとカヤは向かい合って昼食をとっていた。
図書館の職員は交代で休憩を取る。
今日はたまたま、カヤと同じ時間になった。
リタにとって、結婚のことを少しだけ話せる相手は、今のところカヤくらいだった。
とはいえ、自分から積極的に相談するわけではない。
だいたいはカヤに聞かれて、そのたびに少し考え、自分なりの答えを返すだけ。
「館長のご両親にはご挨拶に行ったんですけど……いろいろあって」
「え、反対されたの?」
「はい……」
カヤは目を丸くした。
館長の母は歓迎してくれていた。
だが、父は違った。
あれから館長が何度か説得を試みているらしいが、話は平行線のままだという。
館長自身は、あまりにこじれるようなら家を継がないという選択肢すら口にした。
けれど、そんな簡単な話ではないだろう。
誰かが折れるのか。
どこかで妥協点を見つけるのか。
まだ何も決まっていない。
「まあ、貴族と平民だものね」
「そうですね」
「でも、リタのご両親は反対しなかったの?」
「こちらは、もらっていただく側ですから」
少し苦く笑う。
「もちろん心配はしていると思います。兄にも心配されましたし」
「ああ、リタのお兄さん。王族付きの補佐官の」
「はい。ちょうど休みが取れて、家に帰ってきたので報告できました」
「そりゃ心配するわよ」
カヤはパンをちぎりながら言った。
「年の差婚だし」
「でも、貴族の結婚では珍しくないのかなって思っていました」
「昔ながらの家同士の結婚なら、年の差はそこまで珍しくないよ。でも最近は違うの。ここ数年で恋愛結婚も増えたし、若い人ほどその感覚が強いから」
カヤの言うことは、たしかにその通りだった。
この数年で、貴族と平民の距離感は少しずつ変わってきている。
リタの母も平民だが、王立学院を優秀な成績で卒業した。
あとから館長に聞かされて驚いたことのひとつだ。
今は、平民でも優秀であれば王国の中枢に入れる時代になりつつある。
実力さえあれば、出世もできる。
だから、女性がひとりで働き、生きていくことも、まったくの例外ではなくなってきた。
――とはいえ。
それが当たり前というほどには、まだ広がっていない。
「……結婚って、難しいですね」
ぽつりと呟く。カヤは少し笑った。
「難しいよ。結婚前から悩みだらけ」
「カヤさんは、うまくいっていると思っていました」
「うまくいってるよ?」
すぐに答える。
そのあとで、少しだけ肩をすくめた。
「でもね。いくら好き同士でも、ずっときらきらしてるわけじゃないの。幸せだけど、理想通りかって言われると、違うなって思う時もある」
「結婚って、もっと……きらきらしたものだと思っていました」
「わかる」
カヤが笑う。
「小さい頃って、お姫様に憧れるでしょ。いつか王子様が迎えに来てくれるんじゃないかって。本が好きな子あるあるよね」
リタは思わず大きく頷いた。
まさにその通りだった。
物語の中なら、恋はきれいで、結婚は幸福の完成形だった。
でも現実は、どうやら違うらしい。
「私の場合はね」
カヤが少し視線を落とす。
「結婚後も仕事を続けたいってことで、義理の両親にいい顔されなかったの」
「え……」
「夫は賛成してくれたけどね。そもそも私、それを認めてくれないなら結婚しないって言ってたし」
さっぱりした口調。 でも、その奥にあった苦労は、きっと軽くない。
「まだ結婚は早いって、自分でも思ってたの。好きだけで全部うまくいくわけじゃないし」
「兄にも、まだ少し早いんじゃないかって言われました」
「だよね」
カヤは苦笑した。
「リタくらいの年齢って、結婚してる人もいるけど、まだ働いてる人も多いもの。せっかく王立学院を出て、いい職場に入って、これからって時期なのに。辞めるの、もったいないって思われても仕方ない」
「カヤさんは貴族だから、余計ですよね」
「そうなのよ。まだまだ、貴族の女が働くなんてって考える人もいるし。結婚後も続けるなんて、って」
カヤはそこで言葉を切った。少しだけ暗い表情。
「何度も話し合って、最終的には理解してもらえたけど……」
――沈黙。
リタも自然と黙った。
楽しいはずの結婚。
でも、どうしてこんなに不安ばかり増えるのだろう。
「子どもができたら、たぶん辞めることになると思うの」
カヤがぽつりと続けた。
「ミハイル館長は、子どもができても続けられるようにって言ってくれてたんだけどね」
「館長なら、そう言いそうです」
「でしょ。でも、今の館長じゃあね……」
今の館長――つまり、新しく就任した女性館長のことだ。
仕事はできる。
有能だとも思う。
けれど、そのぶん他人にも厳しい。
特に女性職員には、どこか当たりが強かった。
「上司で、職場の空気って本当に変わるよね」
カヤがため息まじりに言う。
「実感してる」
「はい……わたしもです」
リタも頷く。
前の館長――ミハイルは真面目だった。
だが、必要以上に人を追い詰めることはなかった。
体調が悪ければ帰らせてくれたし、相談すれば勤務時間の融通も利かせてくれた。
でも今は違う。
相談する余地そのものがない。
だからこそ、リタは早めに挙式の日程を決め、退職の時期も調整しなければと思っていた。
これ以上、職場に迷惑をかけたくない。
「そういえば」
空気を変えるように、カヤが顔を上げた。
「リタ、“金曜日の女神”って知ってる?」
「……いいえ」
首を振る。
カヤは少し声を潜めた。
「館長って、全然女の人に興味なさそうだったでしょ?だから余計に噂になったのよ」
「噂?」
「毎週金曜日に来る美女がいたの。金髪に青い目。スタイル抜群で、綺麗で、しかも色っぽいの。職員の中には、彼女のファンまでいたくらい」
リタは瞬いた。
「知らなかったです」
「その人、館長に会いに来てたんじゃないかって噂があってね。実際、一緒にいるところを見た人もいたの」
「……そうなんですか」
「だから、付き合ってるんじゃないかって思ってる人もいたのよ。館長が辞めてから来なくなって、がっかりしてる男性職員もいるみたい」
話を聞きながら、リタは妙に納得してしまった。
やっぱり、と思う。
館長には大人の綺麗な女性が似合う。
世慣れていて、知識もあって、会話も洗練されていて。
自分は子どもっぽい。
知らないことばかりで、未熟で、頼りない。
館長だって、そういう相手の方が一緒にいて楽しいのではないか。
「あとで聞いてみた方がいいかもね」
カヤが真面目な顔で言う。
「確認のためにも」
「……そうですね」
カヤはあまり人の事情に踏み込みすぎない。
でも、必要な時にはちゃんと声をかけてくれる。
姉御肌で、優しくて、大人だ。
きっと本気で心配してくれているのだろう。
結婚までに話し合うべきことは、きっとたくさんある。
なのに、自分は何も知らない。
何も決められていない。
そのことに、急に足元が不安定になる。
リタはすっかり、マリッジブルーになっていた。




