5.リタ、実家へあいさつに行く 2
「リタ! 館長さん、嫌いなものはない?」
「たぶん……ないと思う」
少しだけ間のある返事。
母は気にした様子もなく、すぐに次の話を続けた。
「甘いもの、大丈夫かしら。商人さんからはちみつをいただいたの。だからね、パンを試作してみたのよ」
「はちみつのパン……」
その響きだけで、自然と口元がゆるむ。
父のパンがまずいはずがない。
ふわふわで、やわらかくて。
ほんのり甘くて、香りがよくて。
想像しただけで、少し幸せになる。
それから、ふたり並んで実家の方へ歩き出した。
リタの実家はパン屋だ。
父が焼き、母が売る。
小さな店だが、常連は多い。
父は無口で職人気質。
愛想はないが、腕は確か。
母は明るく、よくしゃべる。
そのおかげで、店はうまく回っている。
「館長は、仕事中によく『チョコないか』って言うんです」
「リタのお気に入りのお店ね」
「はい。ミセス・ココアのお店のチョコレート」
道すがらにある、小さな店。
店主も、店の名前で呼ばれている。
ミセス・ココア。
あの人のチョコは特別だった。
甘いのに、くどくない。
すっと溶けて、後味が軽い。
この世界の菓子は、基本的に甘すぎる。
だからこそ、あの店の味は際立っていた。
(前の世界なら、普通だったのに)
ふと浮かぶ記憶。
コンビニのお菓子ですら、美味しかったあの世界。
それでも――
今の生活も、悪くない。
図書館と家の往復。
たまに寄るチョコレート店。
前世と変わらない、穏やかな日々。
「じゃあ、チョコペストリーも出そうかしら」
母が楽しそうに言う。
「あのチョコ、仕入れてあるのよ」
「え、それ食べてない!」
思わず身を乗り出す。
「新作?」
「昨日から出してるの。自信作よ」
サクサクの生地に、あのチョコ。
絶対に美味しい。
むしろ、最高だ。
(食べたい……)
自然と喉が鳴る。
父のパンは、リタにとって世界一だった。
それは、前世を知っているからこそ、余計にそう思う。
「リタ、本当にパンの話になると顔がゆるむわね」
「……そうかな」
「お父さん、喜ぶわよ」
「だといいけど」
その言葉に、少しだけ視線が落ちる。
――数日前。
結婚の話をしたときのことを思い出す。
母は驚きつつも、落ち着いていた。
「相手は誰?」
そう聞かれて、なんとか説明した。
恋愛ではないこと。
仕事で長く一緒にいること。
居心地がいいこと。
館長の本心は、正直わからない。
でも、少なくとも嫌われてはいないはずだと思っている。
だから――
「信じて、ついていきたい」
そう伝えた。
母は静かに頷いた。
――けれど。
父は何も言わなかった。
驚いた顔のまま、作業場に戻ってしまった。
それから、まともに会話ができていない。
(怒ってるのかな……)
父は無口だ。
酒を飲めば少しだけ柔らかくなるが、基本は寡黙。
ただ黙って、仕事をする人。
館長と、少し似ている。
自分の仕事を大切にして。
言葉にしないで、責任を背負う人。
(……そういう人が、好きなんだと思う)
ふと気づく、自分の好み。
「そろそろ時間ね」
母の声で、現実に戻る。
時計を見る。
約束の時間が近い。
「迎えに行ってくるね」
そう言って、家を出る。
外の空気は、少しだけ緊張を和らげた。
この世界の移動手段は、馬車やバス、汽車。
前世と似ているようで、少し違う。
文明は、現代に比べたら遅いとは思う。
ただ、中世というほどでもない。
それでも不便とは感じなかった。
実家からバス停まではすぐだ。
時計の針が重なるころ。
緑色のバスがゆっくりと近づいてくる。
丸みのある車体。
どこか懐かしい形。
(クラシックカーみたい)
そんなことを思う。
バスが止まり、扉が開く。
降りてきたのは――見慣れているはずの人。
なのに、どこか違う。
スーツ姿。
髪は整えられていて、髭も剃られている。
いつもの、少しだらけた雰囲気がない。
(……誰?)
一瞬、そう思ってしまうくらいには違って見えた。
(あれ……この感じ)
胸の奥が、少しだけざわつく。
どこかで見たことがある。
この空気。
この姿。
(思い出せない……)
前世の記憶。
ぼんやりと、掴めそうで掴めない。
自分も、スーツを着ていたような気がする。
でも、それ以上は思い出せない。
「おい、リタ」
声で引き戻される。
気づけば、館長がすぐ目の前にいた。
少しだけ心配そうな顔。
相変わらずの色白。
目の下のクマ。
でも今日は、少しだけ整っている。
「館長……こんにちは」
「ぼーっとするな」
軽く頭に手が乗る。
ぽん、と。
最近、増えた距離。
触れられることもまだ慣れない。
でも――嫌ではない。
むしろ……少しだけ、嬉しい。
ふたりは並んで実家へ向かう。
リタはどこかくすぐったい気持ちを抱えて歩いて行った。




