49.リタ、新しい花を植える
午後の庭は、やわらかな陽射しに包まれていた。
数日前まで続いていた雨が嘘のように、空は高く澄んでいる。
リタは本を閉じると、ゆっくりと庭へ出た。
最近は、こうして外を歩く時間が増えた。
屋敷の中で本を読むのも好きだ。
けれど、風の匂いを感じながら歩く時間も、少しずつ好きになっている。
石畳を進んでいく。
その先で、白い花が風に揺れていた。
――ユリだ。
陽の光を受けて、静かに咲いている。
近づくと、やさしい香りがした。
「……もう蕾が膨らんでる。来週には咲くかな」
自然と言葉がこぼれる。
「気に入ったか」
後ろから声がした。
振り向くと、ミハイルが立っていた。
今日は仕事の合間らしく、手には書類を抱えている。
「はい」
リタは小さくうなずく。
「香りもやさしくて……なんだか特別な場所みたいな気がして」
ミハイルは少しだけ目を細めた。
「そうか」
静かな声。
そして、ゆっくりとユリへ視線を向ける。
「……エレナが好きだった花だ」
穏やかな声だった。
「俺は花には詳しくなくてな。自分の名前の花があるって、昔はしゃいでいた」
「そうなんですね……」
エレナのことも、こうして日常の中で話せるようになっていた。
あれほど、名前を聞くだけで胸が苦しくなっていたのに。
今では、彼女のことを二人で静かに思い出せる。
夜もうなされなくなった。
きっとミハイルの中でも、少しずつ過去が穏やかなものへ変わってきているのだろう。
だからこの花にも、祈りのような気持ちが込められている気がした。
リタはしゃがみ込み、白い花びらへそっと触れる。
やわらかな感触。
「……きれい」
そして、小さく笑う。
「もっとたくさん、花を植えましょうか」
顔を上げると、ミハイルもわずかに笑った。
「そうだな。白い花だけじゃなく、季節ごとの花が見られると美しいだろう」
「ええ。ここへ来ると楽しいって思えるような場所にしたいです」
「名所になれば、人も来るだろうしな」
「ミハイルさん、悪い顔してます」
思わず、ふっと笑ってしまう。
貴族らしい考え方もあるけれど、どこか柔軟なのだ。
現代の知識の影響なのかもしれない。
中庭を観光名所にしよう――そんなことも、少しは考えていそうだった。
もし本当に実現したなら。
季節限定の景色として、人が訪れる場所になるのも悪くない。
「……私」
リタは再び花を見る。
「前は、少し怖かったんです」
正直に言う。
「自分が、誰かの代わりなんじゃないかって」
その言葉に、ミハイルの肩がわずかに揺れた。
「悪かった――」
何かを言いかけた彼を、リタはそっと遮る。
「あ、でも……今は違います」
はっきりと言う。ミハイルが目を見開いた。
「館長……いえ、ミハイルさんは、ちゃんと私を見てくれているって分かるから」
少し照れながら笑う。
「それに……エレナさんだけじゃなくて。もともと、私にはこの世界に違和感があったんです」
「違和感?」
「はい」
リタは静かにうなずく。
「ミハイルさんが前世の記憶を持っているって話を聞いて、私も思い出したんです」
少しだけ視線を遠くへ向ける。
「前世ってほどはっきりじゃないんですけど……頭の中に映像があるんです」
「映像……」
「ここではない、どこか遠い世界の」
静かな声で続ける。
「もっと文明が発展していて。そこで、上司の人がいて……」
「リタ……」
ミハイルは、信じられないものを見るように目を見開いていた。
予感はあったのかもしれない。
けれど、こうして口にしたのは初めてだった。
静かな沈黙が落ちる。
やがてミハイルは、小さく息を吐いた。
「……やはり、そうだったんだな」
「でも、それが本当に前世なのかは分からないんです」
リタは苦笑する。
「ただ映像が見えるだけで。本当にあったことなのか、夢なのか……私にも分からなくて」
「そう言うなら、俺もだ」
ミハイルも静かに言った。
「だから、ずっと異世界転生の小説が好きだったんです」
リタは少し笑う。
「そのおかげで、ミハイルさんと出会えたから……それは良かったなって思えるんです」
「俺も、だから小説を読んでいた」
ミハイルはユリを見つめながら続ける。
「図書館へ勤めたのも、それが事実なのか知りたかったからだ」
静かな声。
「もし、あの記憶が本物なら――」
少しだけ目を伏せる。
「あの時代で別れてしまったあいつに、せめて一言伝えたかった」
「どんなことを?」
「好きだ、ということだな」
ミハイルは小さく笑った。
「あの男は、部下が好きだったんだ」
その言葉に、リタはそっとユリへ視線を落とす。
「……たぶん」
静かな声で言う。
「あの世界の部下も、上司が好きだったんですよ」
ミハイルは息を呑んだ。
スーツ姿の上司と部下。
きっと、あの二人は結ばれなかった。
けれど、想いは同じだった。
リタは、ぼんやりと白いワンピースの少女を思い出す。
あの子も、ミハイルが好きだった。
そして、ミハイルもまた、彼女が好きだった。
でも、結ばれなかった。
悲しさも、悔しさも。
その全部があったからこそ、今こうして一緒にいられることが奇跡のように思える。
だから、この花へ祈りを込める。
安らかでありますように、と。
「私も」
リタはそっと言った。
「この花を、好きになれた気がします」
ミハイルは、一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、やわらかく微笑む。
「ああ」
穏やかな声。
「もちろんだ」
その瞬間、風が吹き抜ける。
白いユリが、静かに揺れた。
まるで、祝福するみたいに。
リタは目を細める。
遠い記憶の中。
白いワンピースの少女が笑っていた気がした。
けれど、それが本当に誰なのか。
もう、リタには分からない。
前世なのか。
ただの夢なのか。
それとも、都合のいい幻なのか。
けれど――
今ここにいる。
それだけは、確かだった。
ミハイルが隣へ来る。
自然に、手が重なる。
「……リタ」
「はい」
「ありがとう」
静かな声だった。
けれど、その意味はきっとひとつではない。
過去を受け入れてくれたこと。
今を選んでくれたこと。
隣にいてくれること。
その全部。
リタはそっと笑った。
「こちらこそ」
庭には、穏やかな光が降り注いでいた。
白いユリは、静かに咲き続けている。
前世は、もしかしたら様々な形で存在しているのかもしれない。
リタやミハイルのように、記憶を持つ人が他にもいるのかもしれない。
けれど――今は。
リタとミハイルとして、生きていく。
リタは空を見上げた。
高く澄んだ青空の下。
隣には、愛しい人がいる。
それは、本当に奇跡のようなことだと思えた。




