48.リタ、居場所を見つめる
朝の空気は、少しだけ冷たかった。
昨夜まで見えていた月は姿を消し、空には薄い雲が広がっている。
それでも、雨はもう降っていなかった。
窓を開けると、湿った土と花の香りが風に混ざって流れ込んでくる。
リタはそっと目を細めた。
(……静か)
屋敷で暮らすようになってから、こうして朝の空気を感じる時間が好きになった。
以前は、朝といえば仕事へ向かう準備で慌ただしかった。
図書館へ向かい、書類を確認し、本を整理し、人と話す。
忙しかったけれど、嫌ではなかった。
むしろ――居場所だった。
「……何を考えている?」
後ろから声がする。
振り向くと、ミハイルが寝癖の残ったまま立っていた。
少し眠たそうな顔。
館長だったころは、無精ひげを生やし、書庫へこもりきりになることも多かった。
そのたびに、ベテラン職員たちから注意されていたのを思い出す。
(怒られていましたよね……)
思わず、リタは小さく笑ってしまう。
もうずっと前のことのようだった。
貴族へ戻ってからのミハイルは、いつもきちんとしている。
だからこそ、こうして気の抜けた姿を見られるのが少しうれしい。
「……笑ったな」
「いえ、少しだけ珍しくて」
「寝起きだから許せ」
そんな会話さえ、今は心地よかった。
ミハイルはリタの隣へ来ると、同じように窓の外を見る。
庭には朝露が残り、白いユリが静かに揺れていた。
「今日は冷えるな」
「そうですね」
自然に言葉を交わす。
少し前まで、“夫婦らしさ”なんて分からなかった。
けれど今は、こういう時間なのかもしれないと思う。
無理に言葉を探さなくてもいい。
ただ隣にいるだけで、安心する。
しばらく空を眺めていたときだった。
「……リタ」
ミハイルが静かに呼ぶ。
「はい?」
「最近、何か考え込んでいるだろう」
図星だった。
リタは少しだけ視線を落とす。
「……そんなに分かりやすいですか?」
「ああ」
即答だった。
思わず苦笑する。
隠していたつもりだったのに。
「……何を悩んでいる?」
責めるような声ではない。
ただ、知りたいという穏やかな声。
だからリタも、逃げずに考える。
確かに考えていた。
けれど、それほど深刻なことではない。
本当にミハイルには、隠し事ができなくなっている気がする。
リタと過ごすうちに、彼はさらに細かな変化を察するようになった。
本来、分かりにくいはずのリタの表情からさえ。
だったら、隠さないほうがいい。
不安も、悩みも。
ちゃんと彼へ伝える。
それが、今の二人には必要なのだと思えた。
「……私」
ゆっくりと言葉を探す。
「これから、どうしたいのかなって」
ミハイルは静かに聞いていた。
「図書館を辞めたことは後悔していません」
それは本当だった。
ミハイルのそばにいたい。
その気持ちに嘘はない。
「でも」
少しだけ迷う。
「本が嫌いになったわけじゃないんです」
小さく笑う。
「むしろ、好きで」
「――知っている」
すぐに返ってくる。
その声が少し優しくて、胸が温かくなった。
「本を読んでいると、落ち着くんです」
窓の外を見る。
「知らない世界を知れるし……昔から、本の中にいると安心できました」
前世でも。
この世界でも。
本はずっと、リタのそばにあった。
「だから」
少しだけ呼吸を整える。
「ここでも、何かできないかなって思って」
「何か?」
「はい」
リタは小さくうなずいた。
「領地の子どもたちって、本に触れる機会が少ないですよね」
「……そうだな」
「だから、小さくてもいいから、みんなが使える図書室みたいな場所が作れたらって」
言葉にした瞬間、自分でも驚く。
ぼんやりしていた考えが、少しだけ形になった気がした。
「読み書きを覚えたばかりの子どもでも読める本とか」
「絵本のようなものか」
「はい。あとは昔話とか……領地の記録とか」
少しずつ、言葉が出てくる。
「本があるだけで、救われることもあると思うんです」
「確かに、本はまだ多くはないな」
ミハイルも静かに続ける。
「子ども向けのものは、特に少ない」
「ええ。娯楽みたいなものも、あまりありませんし……」
「もっと本を読むことが、身近になればいいな」
気づけば、夢中になって話していた。
そして、はっとする。
「……すみません」
「なぜ謝る」
「勝手なことを……」
「勝手ではない」
ミハイルは静かに言った。
「それが、リタのやりたいことなんだろう」
その言葉に、胸が揺れる。
「……やりたいこと」
今まで、あまり考えたことがなかった。
どうすれば迷惑をかけないか。
どうすれば嫌われないか。
そんなことばかり考えていた気がする。
「やってみたいなら、やればいい」
ミハイルは穏やかに続ける。
「必要なものがあるなら、用意する」
「……そんな簡単に」
「簡単じゃないことは分かっている」
小さく笑う。
「だが、やる前から諦める必要はない」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
ミハイルは、いつもそうだ。
無理に引っ張るわけではない。
けれど、リタが自分で選べるように待ってくれる。
「……ありがとうございます」
小さく言うと、ミハイルは少しだけ目を細めた。
「礼を言うことじゃない」
そう言ってから、ふと庭を見下ろす。
「リタが、この場所で笑ってくれるなら」
静かな声。
「それが、俺はうれしい」
胸が熱くなる。
リタはそっと、窓の外を見る。
雨上がりの庭。
白いユリ。
エレナ――その名を持つ花。
可愛らしさと華やかさを意味する、白い花。
彼女が好きだったその花を、ミハイルはこの庭に増やそうとしている。
忘れないためではなく。
きっと、この土地と、これからの時間を見守ってほしいからなのだろう。
朝の光が差し込む。
いつの間にか、太陽は高く昇っていた。
眩しい光に目を細めながら、リタはそっと空を見上げる。
そして、その隣にいる人を見る。
いつまでも、そばにいてほしい人。
愛しい人。
(……わたしの、居場所なんだ)
少しずつ。
本当に少しずつだけれど。
リタは、この場所で未来を思い描けるようになっていた。




