47. リタ、夜の月を眺める
雨は、数日まだ続いていた。
細く長く降り続くそれは、まるで終わりを知らないようだった。
ミハイルは、あれから苦しそうにすることが減った。
寝室を一緒にしてから、リタは眠る前にそっと手を重ねるようになった。
夜中にふと目を覚まし、隣で眠るミハイルを見る。
また夢で苦しんでいないか。
不安になるのだ。
(……よかった)
けれど今夜も、穏やかな呼吸が聞こえていた。
リタは小さく息を吐く。
それだけで、胸の奥が少し安心する。
そっとベッドを抜け出し、大きな窓へ近づいた。
ガラスに触れ、空を見上げる。
今夜は、静かな月だった。
数日ぶりに見えた月。
雨雲が消え、雲ひとつない空が広がっている。
(……きれい)
少し前は、空を見るのが怖かった。
過去の記憶に引きずられるようで。
自分が誰なのか、分からなくなりそうで。
けれど今は、不思議と違った。
リタは、自分が“リタ”なのだと思えた。
だから、空を見上げても怖くない。
「リタ、どうした?」
不意に、後ろから温もりが重なる。
ミハイルだった。
そっと抱きしめられる。
「ミハイルさん……」
「目が覚めたら、君がいなくてな」
少し眠そうな声。
「どうしたのかと思った」
「月がきれいだったので……」
「……どれ」
ミハイルはリタの肩越しに空を見上げる。
「……本当だ」
静かな声。
「きれいだな」
「……でしょう?」
ふふ、と小さく笑う。
こんな時間が、幸せだった。
同じ景色を見て。
同じ空気を感じて。
体温を分け合う。
そういう積み重ねが、少しずつ二人を夫婦にしていく気がした。
目が合う。
どちらからともなく、そっと口づけを交わす。
静かな夜。
窓の外には、穏やかな月。
その光に照らされながら、ミハイルはリタを見つめていた。
「……最近、顔つきが変わったな」
「え?」
「前より、少し穏やかになった」
思いがけない言葉に、リタは目を瞬かせる。
「そうでしょうか」
「ああ」
ミハイルは静かにうなずいた。
「前は、どこか張り詰めていた」
「……私が?」
その言葉に、リタは少し考える。
確かにそうだったのかもしれない。
ずっと、不安だった。
夫婦とは何なのか。
ミハイルは本当に自分を見ているのか。
前世とは。
エレナとは。
考えれば考えるほど、自分を見失いそうだった。
――でも今は。
すべての答えが出たわけではない。
それでも、以前ほど苦しくはなかった。
「俺が不安にさせたのも悪かったのだがな。結婚してから、ずっと気が抜けない生活だっただろう」
「そうかもしれません。ようやく、慣れてきたのかもしれないです」
「……そうか」
ミハイルは小さく目を細めた。
「あと……怖くなくなったんです」
ぽつりと呟く。
「――空を見るのも」
ミハイルが静かにリタを見る。
「ここにいることも」
胸に手を当てる。
「ちゃんと、自分で選んでいいんだって思えるようになりました」
少しだけ照れながら続ける。
「それは……ミハイルさんと、ちゃんと話すことができたからです」
ミハイルは、どこか安心したように目を細めた。
「……そうか」
それだけ言って、そっとリタの髪を撫でる。
やさしい手。
以前は触れられるだけで緊張していたのに、今は不思議と落ち着いた。
「ミハイルさんが、私の言葉をちゃんと聞いてくれるから」
リタはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私の気持ちを大切にしてくれるから。ちゃんと言おう、選ぼうって思えるようになったんです」
ミハイルは、少し眩しそうに目を細めた。
「リタ」
「はい……?」
「焦らなくていい」
静かな声。
「言っておいて何だが……急にリタらしくなくなるのは、正直少し寂しい」
ふっと、からかうように笑う。
それから、額にそっと口づけを落とした。
「だから……急がなくていい。夫婦も、家族も……急に完成するものじゃない」
その言葉に、胸が温かくなる。
「……少しずつでいい」
ミハイルはそう言って、小さく笑った。
「……俺たちらしく、やっていけばいい」
“俺たちらしく”。
その言葉が、やさしく胸に残る。
前世がどうだったとしても。
誰に似ていたとしても。
今ここにいる二人が、自分たちの関係を築いていく。
それでいいのだと思えた。
リタはそっとミハイルへ寄り添う。
彼の心臓の音が聞こえる。
生きている。
ちゃんと、ここにいる。
(……優しい心音)
失うことばかり恐えていた。
でも今は、少しだけ未来を信じたい。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
長い雨が終わった夜。
二人は寄り添いながら、しばらくその光を見つめていた。
時折、口づけを交わし。
それからまた、同じベッドで一緒に眠る。
そんな日々が、これからも続いていくように――。
リタは静かに、月へ願った。




