46.リタ、幸せを祈る
雨の日だった。
屋敷の外は、しとしとと静かな雨音に包まれている。
窓を打つ水滴をぼんやりと眺めながら、リタは本を閉じた。
――あの夜から。
少しだけ、世界が変わった。
ミハイルの言葉。
その温もり。
すべてが、胸の奥に残っている。
(……大丈夫)
そう思えたはずだった。
「リタ」
背後から声がする。
振り返ると、ミハイルが立っていた。
少しだけ疲れた顔。
雨の日になると、ミハイルは時折体調を崩す。
馬車の事故以来、その傾向が強くなったらしい。
夜中、苦しそうにうなされていることもある。
「どうしました?」
「……少しだけ」
そう言って、ミハイルは隣に腰を下ろした。
そっと、リタの肩へ頭を預ける。
近い。
すぐそばに、彼の顔がある。
けれど今は、それが自然だった。
気持ちを通わせてから、二人の距離は少しずつ縮まっている。
リタにとっては、初めて知る距離感。
戸惑うことも多い。
けれど。
好きな人に触れられることは、恥ずかしさ以上に幸せだった。
「雨の日は、嫌いだ」
ミハイルがぽつりとつぶやく。
「……そうなんですね」
「昔を思い出す」
その言葉に、胸がわずかにざわつく。
ミハイルは目を閉じた。
そして、そのまま静かに体重を預けてくる。
いつもより、少しだけ重い。
リタはそっと彼の顔を覗き込んだ。
(……眠ってる?)
静かな呼吸。
けれど、わずかに眉が苦しそうに寄っている。
リタはためらいながらも、そっと手を伸ばした。
その手に触れる。
「……大丈夫ですよ」
小さく、囁く。
その瞬間だった。
「……エレナ」
息が止まる。
「行かないでくれ……」
強く、手を握られた。
逃がすまいとするような力。
「……また、失いたくない……」
震える声だった。
必死に何かを掴もうとしているような。
その瞬間。
リタの脳裏に、知らないはずの光景が流れ込む。
雨。
泣き叫ぶ、小さな男の子。
慟哭する声。
彼は、雨の日に彼女を失ったのだ。
そして、その記憶が今も彼を苦しめている。
けれど。
白いワンピースの少女は、悲しむより先に、泣いている彼を心配しているように見えた。
――泣かないで。
そんな声が聞こえた気がした。
(……きっと)
リタは静かに思う。
(いつまでも、悲しんでいてほしいわけじゃない)
その少女が誰なのか。
今見えたものが何なのか。
本当のことは、わからない。
――けれど。
こんなにも長い間、ミハイルは苦しんでいたのだ。
リタは、ぎゅっとその手を握り返した。
「大丈夫です……」
静かに囁く。
「私は、ずっとそばにいますから……」
ミハイルは目を覚まさない。
ただ、苦しそうな呼吸を繰り返している。
リタはさらに強く手を握った。
そして、そっと肩を撫でる。
もう大丈夫。
大丈夫だから。
祈るような気持ちで、何度も撫で続けた。
そのまま、夜は更けていく。
雨音だけが、静かに響いていた。
――やがて。
ミハイルの呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
それに安堵したリタも、いつの間にか眠ってしまっていた。
窓から差し込む光で、ふと目を覚ます。
朝だった。
やわらかな光が、ゆっくりと部屋を照らしている。
「……ん」
ミハイルが目を開けた。
「……リタ?」
手を繋いだままだったことに気づき、わずかに目を見開く。
「……すまない」
すぐに離そうとする。
けれど、リタは少しだけ強く握り返した。
「……うなされていました」
静かに言う。
ミハイルの動きが止まった。
「……そうか」
低く、短い声。
「名前を……呼んでいました」
空気が静かに変わる。
短い沈黙。
「……エレナ、か?」
苦しそうに言う。
リタはそっと、彼の肩を撫でた。
「……はい」
「――すまない」
「……いいえ」
リタは静かに首を振る。
「夢は、どうでしたか?」
ミハイルは少しだけ目を伏せた。
「ああ……やはり事故の日の夢だった」
低い声。
「彼女を失った日の記憶だ」
苦しげに続ける。
「だが、今回は違った」
そこで、わずかに表情が和らぐ。
「彼女が……笑っているように感じた」
静かな声だった。
「初めてだ……」
「そう、でしたか……」
それからリタは、少しずつエレナの話を聞いた。
雨の日。
馬車の事故。
もともと罪悪感はあったらしい。
だが、記憶は曖昧だった。
けれど事故未遂のあとから、何度も鮮明に夢を見るようになったという。
そして今回は違った。
夢の中の彼女は、穏やかに笑っていたのだと。
「エレナが笑っているなら」
ミハイルは静かに言った。
「俺は、それでいい」
その言葉に、リタはそっと微笑む。
「たぶん、彼女は……」
少しだけ言葉を探す。
「館長が……ミハイルさんが、笑ってくれることが幸せなんだと思います」
「リタ……」
顔を上げるミハイル。
リタはそっと微笑み、そのまま静かにキスをした。
彼が、もっと笑ってくれるように。
その願いを込めるように。
唇が離れる。
そしてリタが見上げると、ミハイルはやわらかく微笑んでいた。




