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王立図書館長が突然辞職することになったのですが、なぜか部下の私に求婚してきました  作者: 杜咲凜
第五章 空を見上げた先に

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45.リタ、過去と今、未来がつながる

 そして夜になる。

 静かな時間が流れていた。


 食後のリビング。


 ふたり並んでソファに座り、それぞれ本を手にしている。

 ページをめくる音だけが、かすかに響いていた。


 ふと。


「……リタ」


 ミハイルが本を閉じた。

 その声には、少しだけ緊張が混じっている。


「どうしました?」


 顔を上げると、彼はまっすぐこちらを見ていた。

 いつもより、少しだけ真剣な目。


「話しておきたいことがある」


 その言葉に、自然と背筋が伸びる。

 リタは本を閉じ、小さくうなずいた。


「昼間のことでもあるが……」


 ミハイルは少し迷うように言葉を止める。

 リタは急かさず、静かに待っていた。

 やがて彼は決めたように、まっすぐリタを見た。


「最近、リタを悩ませているのは俺だ。それはわかっていた」


 そう言って、ミハイルはそっとリタの手を取る。


「……信じられないかもしれないが」


 少しだけ間を置いて、続けた。


「俺には、前世の記憶がある」


 静かに落ちた言葉。


 リタは、一瞬だけ瞬きをした。

 けれど――驚きはなかった。


(……やっぱり)


 どこかで、感じていた。

 あの“異世界の本”を読むときの反応。

 時折見せる、遠い目。


「……そう、なんですね」


 落ち着いた声で返すと、ミハイルは少しだけ目を細めた。


「驚かないのか」


「……少しだけ」


 正直に答える。


「でも、なんとなく」


 言葉を選びながら続ける。


「そういうことも、あるのかもしれないって」


 彼は小さく息を吐いた。


「前世で」


 ゆっくりと語り始める。


「俺は、大切な人を失った」


 その声は静かだった。

 ……けれど、重い。


「守れなかった」


 短く、そう言う。


「何もできなかった」


 リタは何も言わず、ただ聞いていた。


「だから」


 握られた手に、わずかに力がこもる。


「もう二度と、同じことは繰り返したくなかった」


 あの事故のときの言葉が、胸をよぎる。

 ――君を失うなんて考えられない。


「……リタ」


 名前を呼ばれる。


「君に会ったとき」


 少しだけ言葉を探すように間が空く。


「最初は、戸惑った」


 視線が揺れる。


「似ていたからだ」


 はっきりと、そう告げられる。

 胸が、わずかにざわつく。

 けれど、リタは目を逸らさなかった。


「……でも」


 続く声は、少しだけ柔らかかった。


「一緒に過ごすうちに、気づいた」


 まっすぐにリタを見る。


「確かに似ている。だが、彼女とは違う」


 その言葉に、息が止まる。


「似ている部分はある」


 静かに続ける。


「だが、同じじゃない」


 そして、少しだけ微笑んだ。


「今、目の前にいるのは――リタだ」


 胸の奥が、じんと熱くなる。


「……俺は」


 ミハイルはゆっくりと言葉を選んだ。


「最初は、過去に引きずられていたのかもしれない」


 正直な告白だった。


「だが、今は違う」


 少しだけ距離が近づく。


「最初に会ったとき、真面目で不器用なのに、一生懸命働くリタを見た」


 静かな声。


「確かに、面影を重ねた部分はあった」


 一度、目を伏せる。


「だが、リタと過ごすうちに……俺は、リタ自身を見ていた」


 迷いのない声だった。


「リタのことが好きなんだ」


 静かに。


 けれど、確かに告げられる。


「いや……長すぎたな」


 小さく苦笑する。


「好き、ではないな」


 そして、まっすぐに言った。


「愛している」


 リタの胸が、大きく揺れる。


「ただ、俺は恐れていた」


 ミハイルの表情に、苦しげな影が落ちる。


「これまで、想いを伝える前に、いつも繋がりが消えた」


 静かな声。


「もし今回も、リタを手に入れようとしたら」


 かすかに眉を寄せる。


「また、消えてしまうんじゃないかと怖かった」


 その顔に滲む苦悩が、痛いほど伝わってくる。


「だから、急にプロポーズをした」


 自嘲するように笑う。


「だが、あまりにも急すぎた」


 そして、小さく息を吐く。


「どう距離を縮めればいいのか、俺自身わからなかった」


 懺悔のような告白。

 けれど、その不器用な苦しさが、リタには伝わってしまう。

 そして同時に――胸が満たされていく。


「夫婦になった。だが、どうすればいいのかわからなかった」


 ミハイルは静かに続ける。


「リタが悩むのも当然だ。俺が、何もはっきりさせていなかった」


 リタはふるふると首を振った。


「いや」


 ミハイルは小さく笑う。


「俺が逃げていたんだ」


 静かな声。


「リタに向き合うのが、怖かった」


 そして、少しだけ困ったように目を細める。


「情けないだろう?」


 その言葉に、リタの目頭が熱くなる。

 自分だけではなかった。

 夫婦として、どうすればいいのか。

 距離をどう縮めればいいのか。

 悩んでいたのは、自分だけじゃなかった。


「リタ」


 ミハイルが、静かに呼ぶ。


「ずっと愛していた。不安にさせて、悪かった」


(……ああ)


 ずっと、欲しかった言葉だった。

 リタはそっと、ミハイルの頬へ手を伸ばす。

 その手に、彼の手が重なった。


「……私も」


 少しだけ震える声。


「今のあなたが、好きです」


 まっすぐに見つめる。


「もし、私たちに過去や前世があったとしても」


 一度、息を吸う。


「それでも、今ここにいるあなたと」


 そして、はっきりと言った。


「一緒にいたいです」


 静寂。

 けれど、重くはない。

 ミハイルはゆっくりと目を閉じ、それから静かに息を吐いた。


「……ありがとう」


 その声は、どこか救われたようだった。


 次の瞬間。

 そっと、手を引かれる。


 近づく距離。

 触れる温もり。

 強く抱きしめるわけではない。

 けれど確かに、大きな腕の中へ閉じ込められる。


 苦しいはずなのに、不思議と心地よかった。


(……ああ)


 ようやく、気持ちが通じた。

 それは誰の気持ちなのだろう。

 リタのものなのか。

 それとも、スーツを着ていた彼女のものなのか。


 ――正直、わからない。


 白いワンピースの少女。

 幼いミハイルによく似た男の子。

 一緒に庭を走り回っていた記憶。

 そして、突然いなくなった少女。


 ――昼間にみた映像。


 あれが幻なのか。

 遠い記憶なのか。


 本当のことはわからない。

 前世があるなら、自分は生まれ変わりなのかもしれない。


 スーツ姿の彼女も。

 白いワンピースの少女も。

 ――けれど、それでも。


 今ここにいるのは、リタだった。

 リタはふと、窓の外を見る。


 そこには静かな夜。

 星が、やわらかく瞬いていた。


 その夜。

 ふたりの間にあった見えない壁は、静かに消えていった。

 そして、ずっと別だった寝室が、それから同じになったのだった。

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