42.リタ、未来を考える
数日間、実家で過ごすことになった。
朝。
焼きたてのパンの香りが家に満ちる。
両親は店に立ち、常連客たちと楽しそうに話していた。
変わらない光景。
その温かさに、リタは少しだけ肩の力を抜く。
朝食を終えると、リタは紅茶を飲みながら本を開いた。
向かいでは、兄が新聞を読み、その横には大量の書類。
休暇中だというのに、結局仕事をしている。
(……相変わらずだなあ)
思わず、小さく笑ってしまう。
そんなリタの視線に気づいたのか、兄が書類から目を離さずに口を開いた。
「そういえば、新しい制度が動き出すことになった」
「制度?」
聞き返すと、兄は淡々と続ける。
「王太子殿下の後押しで、基金が設立される」
「基金……?」
「学び直しのための支援制度だ」
その言葉に、リタは思わず顔を上げた。
「身分や事情に関係なく、学べる場を作る」
静かな声。
けれど、その言葉には確かな熱があった。
「庶民でも、平民でも。年齢も関係ない」
兄は書類を閉じる。
「才能があっても、機会がなかった者は多い」
その視線はまっすぐだった。
「それを放置するのは、国として損失だ。優秀な人材はいくらいてもいい」
(……学び直せる)
その言葉が、胸に残る。
一度きりではない。
選び直せる。
やり直せる。
それは、リタにとって決して遠い話ではなかった。
「実際、もう動き始めている者もいる」
「え?」
兄は少しだけ表情を和らげた。
「お前の義理の姉にあたる人だ」
「……ローラさん?」
「ああ」
兄は頷く。
「最近、学校へ通い始めたらしい。かなり優秀だ」
「……え?」
「特に数字と理数系に強い。成績も上位だ」
淡々とした説明。
けれど、兄が本当に評価していることは伝わってきた。
「今回、新設される王立第二課程の第一期生にも選ばれた」
「第一期生……」
「卒業後は王宮勤務を希望しているそうだ」
リタは言葉を失った。
あの日、中庭で再会したローラを思い出す。
静かで。穏やかで。
けれど、芯のある目をしていた。
誰かのためではなく、自分の意思で歩き始めた人の顔だった。
(……本当に、変わったんだ)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「働いた経験もない貴族夫人だというのに」
兄が静かに続ける。
「本人が強く希望した。かなり覚悟を決めているんだろう」
その言葉に、リタは小さく息を呑む。
ローラは、逃げなかった。
自分の人生から。
自分の望みから。
「もっとも」
兄が疲れたように息を吐いた。
「考案したのが王太子殿下たちだからな。“絶対に成功させろ”と圧力がすごい」
「……兄さん、大丈夫?」
「胃が痛い」
真顔で返され、思わず笑ってしまう。
兄も小さく肩を竦めた。
けれど、その表情はどこか楽しそうでもあった。
「……でも」
リタは少しだけ視線を落とす。
「ルークは……大丈夫なんでしょうか」
ローラが新しい道へ進むこと。
それは素晴らしい。
けれど同時に、不安もある。
兄はすぐに答えた。
「環境は整える」
迷いのない声。
「だが、それだけでは足りない」
兄らしい言葉だった。
「周囲の支えが必要だ」
静かな口調。
「人は一人だけでは生きていけない」
そして、ふとこちらを見る。
「……リタも、協力するんだろう?」
(……支える)
その言葉に、はっとする。
今までのリタは、支えられる側だった。
守られる側。
選ばれる側。
けれど――誰かを支えることもできる。
そして……人生を選ぶのは、自分自身だ。
「……リタ」
兄が静かに呼ぶ。
「お前も考えろ」
その声は、やさしかった。
「どう生きたいか」
まっすぐ胸に届く。逃げ場はない。
けれど、不思議と怖くなかった。
「俺は」
兄が少しだけ視線を逸らす。
「お前がやりたいと言うなら、全力で協力する」
照れ隠しのように続ける。
「……家族だからな」
その言葉に、胸が熱くなった。
兄は昔から賢くて、頼れる人だった。
だからこそ、自分と比べて苦しくなることもあった。
妹もそうだ。
器用で、まっすぐで。
自分だけが立ち止まっている気がした。
けれど。
リタは兄も妹も、ずっと好きだった。
もし彼らが苦しんでいたなら、助けたいと思う。
そして今は。
ローラも。ルークも。
その輪の中にいる。
(……そうか)
支え合うって、こういうことなのかもしれない。
誰かに頼るだけじゃない。
自分もまた、誰かを支えていい。
胸の奥で、何かが少しずつ形になっていく。
(……わたしは)
自分で選びたい。
逃げるのではなく。
自分の意思で。
その瞬間。
リタは、自分の中で何かが静かに定まっていくのを感じた。
その後、久しぶりに家族との時間を過ごした。
妹は子育てで来られなかったが、両親と兄と囲む夕食は懐かしく、温かかった。
笑い声。
焼きたてのパンの匂い。
何気ない会話。
それだけで、心が少しずつ軽くなった気がした。
***
数日後。
リタは屋敷へ戻る馬車に乗っていた。
窓の外を流れる景色を見ながら、何度も考える。
(……わたしは、どうしたいんだろう)
――結婚した。
それだけで終わるほど、簡単な覚悟ではなかった。
好きだからこそ、苦しい。
信じたいのに、不安になる。
疑いたくないのに、怖くなる。
もし恋愛結婚だったなら。
もっと時間をかけて、信じ合えていたのだろうか。
けれど、この結婚は突然だった。
そもそも、付き合うことすら叶わないと思っていた人。
平民と貴族。
昔なら、絶対に結婚などできなかった。
今だから。今の時代だから。
――選べた。
(……そう)
選んだのは、自分だ。
誰かに命じられたわけじゃない。
自分の意思で、この道を選んだ。
家族は応援してくれている。
ミハイルは優しい。
なら――信じたい。
もし、誰かと重なる部分があったとしても。
それでも――今、隣にいるのは自分だ。
ミハイルの穏やかな横顔が浮かぶ。
優しい声。不器用なやさしさ。
(……わたしは)
不安はまだ消えない。
けれど、以前とは違った。
迷いの中にも、確かなものがある。
自分で選びたい。
誰かのためじゃなく。
自分の意思で――あの人を、信じたい。
リタは空を見上げる。
高く、澄んだ空。
どこまでも続いている。
(……少しずつでいい)
そう思えた。
胸の奥に、小さな光が灯る。
まだかすかなもの。
けれど確かに、それは未来へ続いていた。




