41.リタ、兄に相談する
それから数日。
一度は覚悟を決めようと思った。
けれど、結局できなかった。
リタは頑固なところもあるが、それ以上に慎重だった。
何かを決めるまでに、時間がかかる。
まして今回は、自分ひとりの問題ではない。
この選択ひとつで、これからの結婚生活が変わってしまうかもしれない。
そう考えるほど、足は止まった。
考えて。悩んで。
何度も同じ場所を回る。
けれど、答えは出なかった。
ミハイルのこと。エレナのこと。
そして、自分自身のこと。
(……このままじゃ、だめ)
そう思っているのに。
頭の中は、堂々巡りを続けるばかりだった。
相談できる相手も限られている。
一番に浮かんだのは妹だった。
けれど、遠い。家庭もある。
気軽に呼び出せる距離ではなかった。
母や父に話せば、きっと心配させてしまう。
となると――兄。
だが、恋愛の相談などしたことがない。
進路のことや勉強のことならまだしも。
こんな感情を話していいのかもわからなかった。
それでも、父より年齢が近い兄なら、何かわかるかもしれない。
そう思った。
母へ手紙を出すと、ちょうど兄が久しぶりに連休を取り、実家へ戻っていると返事が来た。
ならば、自分も帰ろう。
そうしてリタは、結婚後初めて実家へ戻ることになった。
***
週末。
馬車を降り、懐かしい通りを歩く。
パン屋の前には、変わらない光景があった。
焼きたての香り。
母の笑い声。
常連客たちの楽しそうな会話。
(……帰ってきた)
胸の奥が、少しだけ緩む。
裏口から家へ入ると、屋敷の中は静かだった。
兄なら、きっと書斎だろう。
昔から変わらない。
本と書類に囲まれた、あの場所。
重厚な扉をノックすると、すぐに低い声が返ってきた。
「入れ」
部屋に入る。
兄は机の向こうで書類を読んでいた。
顔を上げる。
「珍しいな」
落ち着いた声。
「どうした」
それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
「……少し、相談があって」
椅子に腰を下ろす。
手をぎゅっと握る。
どこから話せばいいのかわからない。
それでも、ゆっくりと言葉を探した。
「……自分が」
視線を落とす。
「……ミハイルさんにふさわしいのか、わからなくて」
ぽつりと零れた言葉。
ミハイルのこと。
過去のこと。
自分の不安。
全部ではない。
けれど、隠さずに話した。
兄は何も遮らなかった。
ただ静かに聞いていた。
時折、苦しそうに眉を寄せながら。
何かを言いたそうにしながら。
それでも最後まで、口を挟まずに。
たどたどしい話を、辛抱強く聞いてくれた。
それだけで、リタには十分だった。
やがて話し終える。
まとまりはなかったと思う。
どこまで伝わったのかも怪しい。
館長のことを考えれば、全部を話すこともできなかった。
それでも、言える範囲で話し切った。
しばらく沈黙が落ちる。
兄は視線を伏せ、考えるように息を吐いた。
そして、静かに口を開く。
「……リタ」
「はい」
「お前は、どうしたい」
短い問い。
けれど、核心だった。
「……どう、したい」
その言葉を繰り返す。
今まで考えていたのは。
ミハイルの気持ちばかりだった。
彼が何を見ているのか。
誰を想っているのか。
自分はどうあるべきなのか。
けれど。
(……わたしは)
自分の気持ちは。
「……一緒に、いたいです」
小さく答える。
それが、嘘のない本音だった。
兄は静かに頷いた。
「なら、それでいい」
「……え?」
「答えは、もう決まってる」
あまりにもあっさり言われて、思わず顔を上げる。
「過去がどうであれ」
兄は淡々と続ける。
「今、選んでいるのはお前だろう」
その言葉が、胸に落ちた。
「相手も同じだ」
静かな視線。
「他の誰でもなく、お前を選んでいる」
迷いなく、言い切る。
(……選んでいる)
その言葉が、心に残る。
ミハイルは今、自分の隣にいる。
偶然ではなく。自分で選んで。
「……でも」
まだ、不安は消えない。
「過去の人を、忘れられないなら……」
その言葉を、兄が遮る。
「忘れる必要はない」
はっきりとした声だった。
「人は過去を抱えたまま生きるものだ」
否定ではなく、事実として。
「大事なのは」
一拍置く。
「今、誰と生きたいかだ」
静かに響く言葉。難しいことではない。
けれど、今まで見えていなかった。
(……今)
過去ではなく。
未来でもなく。
“今”。
「……そっか」
自然と、言葉が零れた。
胸の中の霧が、少しだけ晴れる。
全部ではない。
けれど、確かに変わった。
兄は小さく頷く。
「考えろ」
それだけ言った。
「答えは、人からもらうものじゃない」
昔から変わらない言葉。けれど、今は素直に受け取れた。
***
部屋を出る。
廊下を歩きながら、そっと息を吐く。
(……一緒にいたい)
それが、自分の答えだった。
なら――あとは、どうするか。
逃げないで向き合う。そう決めたはずだ。
胸の奥に、小さな決意が灯る。
まだ弱い光。
それでも、確かに消えないものだった。
***
扉が閉まったあと。
兄はひとり、深く息を吐いた。
「……まったく」
低く漏れる声。
机に肘をつき、額を押さえる。
本音を言えば。
腹立たしかった。
大切に育ててきた妹を、こんなにも悩ませている男に。
しかも、過去の女性を重ねているなど。
(ふざけるな)
一瞬、そんな感情さえ浮かぶ。
リタが泣きながら帰ってきたら。
傷ついて壊れてしまったら。
その時は、自分が絶対に守る。
家族みんなで支える。
そう思っている。
――けれど。
同時に、理解もしていた。
これはもう、子どもの問題ではない。
大人同士の人生だ。
誰かが正解を決められるものじゃない。
失敗も。
幸せも。
苦しみも。
自分で選び取るしかない。
だから兄は、耐えた。
口を出したい気持ちを。
ミハイルを責めたい感情を。
全部、飲み込んだ。
「……幸せになれよ」
ぽつりと漏れた言葉。
それは、兄としての。
不器用で、まっすぐな願いだった。




