38.リタ、夫の過去の女に疑惑をもつ2
それから数日。
リタは再び、ミハイルの事務仕事を手伝うようになっていた。
書類を整理し、届いた資料を分類する。
必要な本を棚から探し、机へ置く。
やっていることは、昔と何も変わらない。
ミハイルも相変わらずだった。
机に本を積み上げ、気づけば別の本を開き、メグに「また食事を忘れています」と注意される。
その様子に、以前なら自然と笑えていた。
けれど今は胸の奥に、ひとつの言葉が残り続けていた。
――エレナ。
あの日から、何度も思い返してしまう。
(……やっぱり、聞かないと)
このまま曖昧なままでは、前に進めない。
そう思うのに――――
二人きりになると、言葉が出てこなかった。
何を聞けばいいのか。どう聞けばいいのか。
考えるほど、怖くなる。
そうして数日が過ぎた。
そして、気づいてしまう。
以前は自然に触れてくれていた頬へのキスも、額への口づけも、なくなっていた。
小さく距離を置かれている。
その事実が、余計に胸を苦しくさせた。
(……嫌われた、わけじゃない。でも、つらい)
きっと、違う。
ミハイルは、そういう人ではない。
それでも――
前のように触れられなくなったことが、こんなにも寂しいなんて思わなかった。
***
夕方になる。
食事を終えたあと、ふたりでリビングのソファに座っていた。
静かな時間。
ミハイルは本を開き、リタも膝の上に本を置いている。
けれど、文字はまったく頭に入ってこなかった。
(……今しかない)
リタは小さく息を吸った。
「ミハイル様」
呼びかける声が、少しだけ硬くなる。
ミハイルがページをめくる手を止めた。
「……どうした」
「この前のこと、聞いてもいいですか」
わずかな沈黙。
空気が静かに張り詰める。
「……この前?」
「エレナ、って……」
そこまで言って、喉が詰まる。
けれど、逃げたくなかった。
「誰なんですか」
ミハイルはすぐには答えなかった。
一度、静かに目を閉じる。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……幼馴染だ」
低い声。
「婚約者だった」
胸が、きゅっと痛む。
やはり、そうだったのだ。
それ以上聞くべきではない気もした。
けれど、ここで目を逸らしたら、きっとずっと引きずる。
「……もう、いない人だ」
静かな声が続く。
「幼いころから、ずっと一緒だった。家族みたいな存在でな」
遠くを見るような目だった。
その視線だけでわかる。
どれほど大切だったのか。
「結婚するはずだった」
ぽつりと落ちた言葉。
「……だが、叶わなかった」
リタはぎゅっと指先を握りしめた。
何も言えない。
ただ、静かに聞くことしかできなかった。
視界が少し滲む。
苦しい。
これ以上聞きたくないのに、聞かなければいけない気がした。
「……だから」
少しだけ間を置いて、ミハイルが続ける。
「リタを見た時、思ったんだ」
ゆっくりと、視線が向けられる。
「似ている、と」
その瞬間。
事故の時の言葉も。
あの必死な表情も。
呼び間違えた声も。
全部、ひとつに繋がった。
「……生まれ変わりかもしれないと、思ったこともある」
静かな告白だった。
そこにはつよい感情はない。
ただ、事実を口にしているだけ。
それが余計に胸へ刺さる。
(……やっぱり)
そうだったのだ。
自分は、誰かに重ねられている。
「仕草や、視線や……時々、重なる」
ミハイルは淡々と言う。
「空を見上げる癖も、似ていた」
リタは言葉を失った。
(……じゃあ)
心の奥で、小さな声がする。
(私を見ているのは)
今の自分なのか。
それとも――過去の誰か、なのか。
答えは出ない。
ただ、胸の奥が少しだけ冷えていく。
それでも、目の前のミハイルは、確かに今の自分を見ていた。
そう思いたかった。
そう思わなければ、苦しかった。
リタは小さく息を吸う。
「……教えてくださって、ありがとうございます」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
ミハイルは何も言わない。
ただ静かに、こちらを見ている。
「……とても、大切な人だったんですね」
「ああ」
短い返事。
それだけで十分だった。
リタはほんの少しだけ微笑んだ。
「……でも」
言葉を選ぶように続ける。
「今、こうして一緒にいられること……わたしは、幸せです」
本心だった。
嘘ではない。
けれど、胸の奥にある感情は、まだ整理できていなかった。
***
その夜、ベッドに入っても、眠れなかった。
(……似ている、だけ)
何度も心の中で繰り返す。
それでも、消えない違和感があった。
(……代わり、なのかな)
考えたくない言葉が浮かぶ。
否定したいのに、どこかで納得してしまう自分がいた。
だから最初から優しかったのだろうか。
部下だった自分を気にかけて。
距離を縮めて。
身分差まで越えて結婚した。
全部、エレナに似ていたから。
そう思えば、辻褄が合ってしまう。
(……じゃあ)
今の自分は。
どこまで、“リタ”として見てもらえているのだろう。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
けれどミハイルの優しさが嘘ではないことも、わかっていた。
事故の時。あの人は確かに、自分を守ろうとしてくれた。
必死に、壊れそうなほどに。
だからこそ、苦しい。疑いたくない。
でも、不安になる。
静かな夜の中、リタはそっと目を閉じた。
胸の奥に、小さな影を抱えたまま。
そして夢を見る。
誰かが、自分を呼ぶ声。
泣いている。
深く、深く。
どうしようもない悲しみを抱えながら。
あなたは、誰?
なぜ、泣いているの?
夢のなかで声をかけても答えはなかった。




