39.リタ、初めての夫婦の危機
その日から。
リタの中で、何かが少しずつ変わっていった。
大きな事件が起きたわけではない。
屋敷の使用人たちも、メグも、きっと誰も気づいていない。
けれど――確かに知ってしまったのだ。
ミハイルの過去を。
そして、“エレナ”という存在を。
(……エレナか……)
リタは、以前よりぼんやりする時間が増えていた。
本を読んでも、ページをめくる速度が遅い。
気づけば、窓の外を眺めている。
けれど、そのたびに思い出してしまう。
『仕草や、視線や……時々、重なる』
『空を見上げる癖も、似ていた』
ミハイルの声が、頭の奥で繰り返される。
リタは静かに視線を伏せた。
そして、そっとカーテンを閉める。
(……私は、私)
リタなのだ。
エレナではない。
そう言い聞かせるように。
次の日の朝なっても気持ちはかわらない。
ただ、行動はかえない。
いつも通り、同じ時間に目を覚ます。
今止まったら、何もできなくなりそうだった。
同じテーブルで食事をして。
同じ部屋で本を開く。
何も変わらないはずなのに。
(……少し、遠い)
向かい側に座るミハイルが、どこか遠く感じられた。
視線が合う。
けれど、リタはすぐに目を逸らしてしまう。
理由は、自分でもわかっていた。
(……見ているのは、私じゃないかもしれない)
そう思ってしまうから。
ミハイルも、リタの戸惑いに気づいているのだろう。
以前のように、踏み込んではこない。
優しいまま。穏やかなまま。
だからこそ、余計に苦しかった。
あれほど近かった距離が、今はひどく遠い。
彼と出会ってから、ずっと。
自然に隣にいたはずなのに。
(……全部、勘違いだったのかな)
視界が滲みそうになり、リタはそっと唇を噛んだ。
昼になると、リタは書庫へ向かった。
今日は仕事を手伝わず、一人で過ごしたかった。
本を開く。けれど、文字は頭へ入ってこない。
ページだけが静かにめくられていく。
(……集中できない)
ふと、視線を上げる。
窓の外には、変わらない空。
やわらかな光が差し込んでいた。
あれ、今わたし誰だったかな……
視界がだぶる。
(この光景、はじめてじゃない……)
あの空は、ビル……?
でも、まだ見える……
白いワンピースを着て……
首を振って意識を覚醒させる。
空をみると、なんだか最近余計におかしい。
ざわざわする。
胸の奥は重たいまま、混乱が残る。
「リタ!」
突然、外から声が聞こえた。
驚いて窓を開ける。
そこにいたのは、ルークだった。
「ルーク!」
「領地から帰ってきたんだ!」
嬉しそうに手を振っている。
「お母様と一緒にね。最近、お母様すごく元気になったんだよ!」
「ローラ様が?」
リタは目を丸くした。
少し前まで、ローラは塞ぎ込んでいた。
ミハイルとの一件もあり、別荘で静養していると聞いていたのだ。
「最初は落ち込んでたんだけどね。でも僕と話してると元気になるんだって」
ルークは嬉しそうに笑った。
その顔を見るだけで、リタの胸も少しだけ軽くなる。
「最近は一緒に勉強してるんだ。お母様、植物とか動物とか好きだったんだって」
「え、そうなの?」
「うん。数字も好きなんだって! 家庭教師の先生が驚いてた!」
楽しそうに話すルークを見て、リタは思う。
ローラもまた、前へ進こうとしているのだと。
失ったものは戻らない。
悲しみも、簡単には消えない。
それでも、人は少しずつ歩いていく。
「僕ね、医者になりたいって言ったら、お母様も“じゃあ私も勉強しようかな”って笑ったんだ!」
「それ、素敵ね」
「うん!」
ルークは誇らしげだった。
リタはそっとお茶を差し出す。
ルークは「ありがとう!」と笑った。
その無邪気な笑顔を見ていると、張り詰めていた心が少しだけほぐれていく気がした。
夜になる。
ベッドへ入っても、眠れなかった。
目を閉じると、浮かぶのはミハイルの言葉。
ルークにあえて気持ちは浮上した。
しかし、夜はまた気持ちが沈んでくる。
――似ていると思った。
――重なることがある。
(……やっぱり)
考えないようにしても、浮かんでしまう。
昼間は少し気が紛れた。
けれど夜になると、また胸の奥がざわつく。
(私は……代わり、なのかな)
その言葉が、静かに沈んでいく。
否定できない。
むしろ、自然に思えてしまう。
彼が見ているのは。
事故の時、必死に守ろうとしたのは。
本当に、“今の自分”だったのだろうか。
夢の中で聞こえる、泣きそうな声。
誰かを呼ぶ声。
あれはきっと、ミハイルなのだ。
では、彼が探しているのは、誰なのだろう。
呼び続けているのは――誰なのだろう。
それからまた数日が過ぎた。
何もかわらない。一回負の気持ちに沈むと浮上は厳しい。
リタは書斎で、ミハイルの仕事を手伝っていた。
ふとした瞬間、視線が合う。
ミハイルは、いつものように柔らかく微笑んだ。
その表情は変わらない。
何も変わっていないように見える。
それなのに。
(……わからない)
その笑顔の奥で、誰を見ているのか。
確かめる勇気は、まだなかった。
最近は、夢だけではない。
時折、記憶のようなものが頭をよぎる。
泣きそうな声。伸ばされた手。ぼやけた景色。
見えそうで、見えない。
「……リタ?」
呼ばれて、はっとする。
「どうした」
「……少し、考え事を」
それだけ答える。
それ以上は言えなかった。
言葉にした瞬間、何かが壊れてしまいそうで。
少しずつ。ほんの少しずつ。
距離ができていく。
ミハイルとの距離。
そして――自分自身との距離も。
最近、空を見上げるたびに妙な感覚がした。
自分ではない誰かが、そこにいるような。
思考と現実の間に、見えない何かが入り込んでいるような。
(……このままで、いいのかな)
ふと思う。
この場所に、自分はいていいのだろうか。
ここにいることで。
彼の心を、縛ってしまっているのではないか。
(もし、本当に求めているのが……私じゃないのだとしたら)
その先は、考えたくなかった。
けれど、考えずにはいられない。
リタは窓辺へ歩み寄る。
夜の街が静かに広がっていた。
月明かりが、淡く床を照らしている。
「……はあ」
小さく息を吐く。胸が苦しい。
――それでも。
(……離れたくない)
その気持ちだけは、消えなかった。
好きだから。
大切だから。
だからこそ、迷う。
揺れる。
(……私、どうしたいの。気持ちが見えない……)
問いかけても、答えは出ない。
ただひとつ確かなのは。
このままではいけない、ということだけだった。
それでも、まだ。
何も選べないまま。
リタは静かな夜の中に、ひとり立ち尽くしていた。




