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王立図書館長が突然辞職することになったのですが、なぜか部下の私に求婚してきました  作者: 杜咲凜
第四章 疑惑と記憶

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37.リタ、夫の過去の女に疑惑をもつ

 事故のあと、数日は屋敷で静かに過ごすことになった。


 大きな怪我はなかったとはいえ、無理はしないようにとミハイルに言われたからだ。

 その言葉は、やさしくて。

 けれど――どこか少しだけ、過剰にも感じた。


(……あのときの記憶はなんだったのだろう)


 思い出すと、やはり浮かび上がる映像。

 雨の中、強く抱きしめられたこと。

 ――君を失うわけにはいかない。

 あの声は、今も胸に残っている。


 うれしかった。

 守られていると、確かに感じた。

 それなのに。どうしてだろう。

 どこか、落ち着かない。

 事故のあとから、自分が自分ではないような感覚が続いていた。

 現実感が薄く、ふわふわと世界を漂っているような感覚。

 昔から、そういう時は空を見上げていた。

 遠くを見ていると、少しだけ呼吸がしやすくなるから。

 それを感じ取ったのか、ミハイルは無理に話しかけることはしなかった。


「仕事のことは気にするな。本でも読んで休んでいろ」


 そう言って、ぽん、と頭を撫でる。

 そして、額へ静かに口づけを落とした。

 その仕草は自然で、やさしい。

 けれど今のリタには、そのやさしさが少しだけ苦しかった。


 実際にはない映像、実際にあった出来事。

 夢のような感覚。

 誰の記憶?

 リタは再び混乱してしまった。


***


 昼下がり。

 リタは窓辺に立ち、空を見上げていた。

 雨はすっかり上がり、雲の切れ間から柔らかな光が差し込んでいる。


 濡れた庭が、きらきらと光って見えた。


(……きれい)


 そう思って、少しだけ目を細める。

 そのとき。


「……エレナ」


 背後から、小さな声が聞こえた。

 リタは振り返る。

 そこにいたのは、ミハイルだった。

 けれど、その視線はどこか遠い。

 まるで、今のリタではなく、別の誰かを見ているようで。


「……今、なんて」


 思わず、口にしてしまう。

 ミハイルは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を逸らした。


「……いや」


 わずかに、言葉が詰まる。


「すまない」


 低く、短い声。


「……別の人と、重ねた?」


 その一言で、十分だった。

 胸の奥に、冷たいものが落ちる。


(……別の人)


 リタは、“エレナ”という人物に思い当たりがない。

 けれどそれがミハイルにとって、大切な人なのだということだけはわかった。


 あの顔を見れば、嫌でも。

 長い間、上司と部下として彼を見てきた。

 女性と一緒にいる姿を見たこともある。

 きれいな人たちだった。

 けれど、どこか友人のようで、恋人とは違った。


 館長曰く、“腐れ縁の同僚”。

 確かに、気安い空気だった。


 ミハイルは女性に優しい。

 だが、誰かを特別扱いしているようには見えなかった。


 よく言えば仕事熱心。

 悪く言えば、ずぼら。

 それは職場の誰もが知っていることだった。


 だからこそ。

 事故の時の、あの必死な顔が忘れられない。

 あれはまるで――

 失った何かを、もう一度見つけた人のようだった。

 まだ動揺しているのか、ミハイルはうつむいたまま何も言わない。

 その沈黙が、逆に重かった。


「……エレナって、誰ですか」


「………」


 答えは返ってこない。

 けれど、沈黙だけで十分だった。

 リタはゆっくり息を吐く。


「……そう、ですか」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど静かだった。

 それ以上は聞けなかった。

 再び窓の外へ視線を向ける。

 さっきまで綺麗だと思っていた空が、少し遠く感じた。


 それから、何事もなかったように時間は過ぎた。

 食事をして。本を読んで。

 同じ部屋で、同じ時間を過ごす。


 けれど――


(……少し、違う。胸がもやもやする)


 視線が合うと、前より早く逸らしてしまう。

 手が触れそうになると、無意識に引いてしまう。

 ほんのわずかな変化。

 でも、それは確かにあった。


 ミハイルは何も言わない。

 気づいているのか、いないのか。いつも通りに見える。

 そのことが、余計にリタを不安にさせた。


(……わたしは………)


 本当に、彼に必要とされているのだろうか。

 それとも。誰かの代わりとして、ここにいるだけなのだろうか。


 


 その夜。ベッドに入っても、眠れなかった。


(……エレナ)


 頭の中で、その名前が繰り返される。

 自分ではない名前。

 知らないはずの人。


 けれど――どこか、引っかかる。

 胸の奥に、かすかな違和感が残る。


(……あのとき、あの記憶は。)


 事故の瞬間。

 あの声。

 あの必死さ。

 あれは、本当に自分へ向けられたものだったのだろうか。


 それとも。別の誰かを重ねて――


(……違う)


 首を振る。

 考えすぎだと、自分に言い聞かせる。

 けれど、心は、簡単には納得してくれない。


(……わからない、わからない)


 彼が見ているのは、自分なのか。

 それとも――その答えは、まだ見えなかった。

 静かな夜。リタはひとり、目を閉じる。

 胸の奥に、小さな影を抱えたまま。


 そして夢を見る。 


 誰かが、自分を呼ぶ声。

 泣いている。深く、深く。

 どうしようもない悲しみを抱えながら。

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