37.リタ、夫の過去の女に疑惑をもつ
事故のあと、数日は屋敷で静かに過ごすことになった。
大きな怪我はなかったとはいえ、無理はしないようにとミハイルに言われたからだ。
その言葉は、やさしくて。
けれど――どこか少しだけ、過剰にも感じた。
(……あのときの記憶はなんだったのだろう)
思い出すと、やはり浮かび上がる映像。
雨の中、強く抱きしめられたこと。
――君を失うわけにはいかない。
あの声は、今も胸に残っている。
うれしかった。
守られていると、確かに感じた。
それなのに。どうしてだろう。
どこか、落ち着かない。
事故のあとから、自分が自分ではないような感覚が続いていた。
現実感が薄く、ふわふわと世界を漂っているような感覚。
昔から、そういう時は空を見上げていた。
遠くを見ていると、少しだけ呼吸がしやすくなるから。
それを感じ取ったのか、ミハイルは無理に話しかけることはしなかった。
「仕事のことは気にするな。本でも読んで休んでいろ」
そう言って、ぽん、と頭を撫でる。
そして、額へ静かに口づけを落とした。
その仕草は自然で、やさしい。
けれど今のリタには、そのやさしさが少しだけ苦しかった。
実際にはない映像、実際にあった出来事。
夢のような感覚。
誰の記憶?
リタは再び混乱してしまった。
***
昼下がり。
リタは窓辺に立ち、空を見上げていた。
雨はすっかり上がり、雲の切れ間から柔らかな光が差し込んでいる。
濡れた庭が、きらきらと光って見えた。
(……きれい)
そう思って、少しだけ目を細める。
そのとき。
「……エレナ」
背後から、小さな声が聞こえた。
リタは振り返る。
そこにいたのは、ミハイルだった。
けれど、その視線はどこか遠い。
まるで、今のリタではなく、別の誰かを見ているようで。
「……今、なんて」
思わず、口にしてしまう。
ミハイルは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を逸らした。
「……いや」
わずかに、言葉が詰まる。
「すまない」
低く、短い声。
「……別の人と、重ねた?」
その一言で、十分だった。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
(……別の人)
リタは、“エレナ”という人物に思い当たりがない。
けれどそれがミハイルにとって、大切な人なのだということだけはわかった。
あの顔を見れば、嫌でも。
長い間、上司と部下として彼を見てきた。
女性と一緒にいる姿を見たこともある。
きれいな人たちだった。
けれど、どこか友人のようで、恋人とは違った。
館長曰く、“腐れ縁の同僚”。
確かに、気安い空気だった。
ミハイルは女性に優しい。
だが、誰かを特別扱いしているようには見えなかった。
よく言えば仕事熱心。
悪く言えば、ずぼら。
それは職場の誰もが知っていることだった。
だからこそ。
事故の時の、あの必死な顔が忘れられない。
あれはまるで――
失った何かを、もう一度見つけた人のようだった。
まだ動揺しているのか、ミハイルはうつむいたまま何も言わない。
その沈黙が、逆に重かった。
「……エレナって、誰ですか」
「………」
答えは返ってこない。
けれど、沈黙だけで十分だった。
リタはゆっくり息を吐く。
「……そう、ですか」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど静かだった。
それ以上は聞けなかった。
再び窓の外へ視線を向ける。
さっきまで綺麗だと思っていた空が、少し遠く感じた。
それから、何事もなかったように時間は過ぎた。
食事をして。本を読んで。
同じ部屋で、同じ時間を過ごす。
けれど――
(……少し、違う。胸がもやもやする)
視線が合うと、前より早く逸らしてしまう。
手が触れそうになると、無意識に引いてしまう。
ほんのわずかな変化。
でも、それは確かにあった。
ミハイルは何も言わない。
気づいているのか、いないのか。いつも通りに見える。
そのことが、余計にリタを不安にさせた。
(……わたしは………)
本当に、彼に必要とされているのだろうか。
それとも。誰かの代わりとして、ここにいるだけなのだろうか。
その夜。ベッドに入っても、眠れなかった。
(……エレナ)
頭の中で、その名前が繰り返される。
自分ではない名前。
知らないはずの人。
けれど――どこか、引っかかる。
胸の奥に、かすかな違和感が残る。
(……あのとき、あの記憶は。)
事故の瞬間。
あの声。
あの必死さ。
あれは、本当に自分へ向けられたものだったのだろうか。
それとも。別の誰かを重ねて――
(……違う)
首を振る。
考えすぎだと、自分に言い聞かせる。
けれど、心は、簡単には納得してくれない。
(……わからない、わからない)
彼が見ているのは、自分なのか。
それとも――その答えは、まだ見えなかった。
静かな夜。リタはひとり、目を閉じる。
胸の奥に、小さな影を抱えたまま。
そして夢を見る。
誰かが、自分を呼ぶ声。
泣いている。深く、深く。
どうしようもない悲しみを抱えながら。




