36.リタ、夫の大切さを知る
屋敷と図書館を往復し、時折近くのレストランへ出かける。
街の店をのぞくこともあったが、必要な日用品を少し買い足す程度だった。
けれど、不思議と物足りなさはない。
好きな本を読み、同じ時間を過ごす。
ただ、それだけ。
それなのに、胸の奥は満たされていた。
朝、同じ食卓を囲むこと。
図書館へ向かう前に「行ってきます」と声をかけること。
帰ってくれば、ソファで本に埋もれているミハイルの姿があること。
リタは幸せを実感できた。
そうしてふたりらしい、静かな新婚旅行は終わりを迎えた。
旅行の帰路の馬車は、静かに揺れていた。
旅の終わり。どこか名残惜しい空気が、ふたりの間に流れている。
言葉は少ない。
けれど、それでよかった。
行きの頃は、二人きりの空間に緊張していた。
(また、ミハイルさん寝てる)
旅行中、また朝方まで本を読みあさっていたようである。リタはミハイルの願いをみた。
行きは何を話せばいいのかわからなくて、沈黙が怖かった。
だが今は違う。
隣にいることが、自然だった。
この旅の中で、ふたりの距離はゆっくりと近づいていた。
(雨、降ってきた?)
リタが窓の外を見つめた。
すると、ふと手が触れる。
ミハイルが頭を撫でる。
顔をあげるとミハイルは眠そうにしていた。
目が覚めたようだ。
頬に軽く口づけるミハイル。
挨拶の延長のような、静かな触れ合い。
自然とこんなことが増えた。
(恥ずかしいのに、うれしい)
リタにとっては、その一つひとつが大切だった。
隣にいるだけで、心が落ち着く。
そんな相手がいることが、ただ嬉しかった。
ふたたび、窓の外へ視線を向ける。
空が暗い。
いつの間にか、黒い雲が広がっていた。
「……雨か」
ミハイルが短く呟く。
やがて、ぽつり、と音がした。
それはすぐに数を増やし、激しい雨へと変わっていく。
馬車の屋根を、容赦なく叩く雨音。
道はぬかるみ、揺れが大きくなる。
車輪が泥を踏む音が重く響いた。
御者の声も、遠くから聞こえる。
リタは無意識に指先へ力を込めた。
(……大丈夫)
そう思った、その瞬間。
ぐらり、と馬車が大きく傾いた。
「――っ!」
体が浮く。視界が回る。
何が起きたのか理解するより早く――
強い衝撃が襲った。
その直前、何かに、強く引き寄せられる。
抱きしめられるように。
包み込まれるように。
次に感じたのは、ぬかるんだ地面の冷たさと――
腕の中の、あたたかさだった。
一瞬、そのぬくもりが頭をよぎる。
――あの時も。
こうやって、強く抱き寄せられて。
頭が真っ白になって。
遠ざかる意識の中、腕の温度だけを感じて――
そして。
真っ赤な視界。耳鳴り。
何かを叫ぶ声。届きそうで届かない手。
胸が、ひどく苦しくなる。
「……リタ」
かすれた声が聞こえた。
はっと現実へ引き戻される。
違う。
今は違う。
痛みも、赤い景色もない。
目を開けると、すぐ近くにミハイルの顔があった。
自分を庇うように、覆いかぶさっている。
「大丈夫か」
息が少し荒い。
顔には泥がつき、服も汚れていた。
「……わたしは」
まだ、頭の中で記憶と現実が交差している。
胸がざわつく。
「大丈夫……です」
そう答えた瞬間。
ミハイルの肩から、わずかに力が抜けた。
けれど、まだ離れようとしない。
「怪我は」
震えるような手が、リタの頬に触れる。
「どこか痛むか」
「……大丈夫です」
何度も確かめるように視線が落ちる。
肩。腕。指先。
まるで、本当にそこにいるか確認するように。
「ミハイル様……?」
呼びかけると、彼は目を閉じたまま低く呟いた。
「……よかった」
その一言に、胸が締めつけられる。
どれだけの思いで、自分を守ったのか。
考えるまでもなかった。
「君を……失うわけにはいかない」
その声は、ほとんど息のように零れた。
けれど、はっきりと届いた。
眉間にしわを寄せ、苦しそうに息を吐くミハイル。
その姿に、リタの目に涙がにじむ。
ただ守られただけじゃない。
必要とされている。
失いたくないと思われている。
そのことが、胸の奥へ静かに沁み込んでいく。
「……ありがとうございます」
小さく呟くと、ミハイルは何も言わず、ただリタの肩を抱き寄せた。
その腕は、少し震えていた。
***
馬車は立て直され、再びゆっくりと動き出した。
幸い、大きな怪我はない。
けれど、心はまだ落ち着かなかった。
隣に座るミハイルの腕に、そっと触れる。
確かに、そこにいる。
そのことが、ひどく安心させた。
(……この人は)
きっと、何度でも。
自分を守ろうとするのだろう。
いつもそんな素振りを見せないのに。
すこし不器用で。
そして、やさしい。
(……うれしい)
胸の奥に、あたたかなものが広がっていく。
けれど、それと同時に。
頭の奥には、さっきの感覚が残っていた。
苦しくて。会いたくて。会えなくて。
言いたくて。言えなくて。
誰かを失ったような、強い感情。
それが誰のものなのか。
何を失った記憶なのか。
まだ、わからない。
けれど――
胸の奥だけが、ずっと痛かった。




