33.リタ、職場復帰に悩む
ベルミンガムで過ごす日々は、リタにささやかな変化をもたらしていた。
街に構えられた屋敷は、王都に比べればコンパクトなものだったが、この都市は地価も高い。
屋敷を持てるだけでも、さすが貴族だと感心してしまう。
それに、図書館への立地も良い。
乗り合いの馬車もあり、一人でも気軽に足を運べる。
治安も悪くない。昼間であれば、女性や子どもが歩いている姿も見かけるほどだった。
リタとミハイルは、ここでも変わらない生活を送っていた。
好きな時間に起き、簡単な食事を共にし、そのあとはそれぞれ好きな本を読む。
そしてミハイルはというと、ソファに山のように本を積み上げ、読みながらそのまま寝落ちしていることも珍しくなかった。
朝、リタが起き共有スペースのそこに彼がいる。
そのだらしなさが、どこか懐かしくて。
(……ああ、この人だ)
かつての職場の上司。
自分のよく知るミハイル。
思わず、微笑んでしまう。
身だしなみも、つい疎かになる。
ひげも剃らずにいると、さすがにメグに注意されていた。
それでも、リタが図書館へ行くと言えば、軽くうなずくだけで止めることはしない。
「メグと行きます」
そう伝えれば、「ああ」と短く返すだけ。
そのまま食事もそこそこに、本に戻るあたりが、いかにも彼らしい。
リタにとっても、その距離感は心地よかった。
食事を終えると、メグとともに屋敷を出る。
馬車を手配し、街の中心へ向かう。
図書館へ近づくにつれて、胸の奥が温かくなる。
(……やっぱり、好きなんだ)
本に囲まれて働くこと。
人と本をつなぐ時間。
見上げれば、天井まで届く本棚。
紙の匂いと、静かな空気。
ここが、一番落ち着く。
それは、結婚してからも消えることのなかった想いだった。
***
その日の夕方。
屋敷に戻り、ほっと一息ついていたときだった。
「リタ」
不意に、ミハイルに呼ばれる。
顔を上げると、いつもの穏やかな表情。
けれど、その奥にわずかな真剣さが混じっていた。
夕食を共にしながら、今日読んだ本や図書館で見つけた話をしているときだった。
ふと、視線を感じる。
「どう、かしました?」
問いかけると、ミハイルは一拍置いた。
「もし――」
静かに言葉を選ぶように続ける。
「戻りたいと思うなら、図書館で働くことを考えてもいい」
その言葉に、リタは息を呑んだ。
「……え?」
思わず聞き返してしまう。
ミハイルは落ち着いたまま続ける。
「ベルミンガムでもいいし、王都でもいい。
方法はいくらでもある」
「でも……」
言葉がうまく出てこない。
「気になっているんだろう」
やさしく言い当てられる。
「……はい」
小さくうなずく。
「ここに来てから、ずっと……」
ミハイルはほんのわずかに目を細めた。
「顔を見れば、わかる」
逃げ場のない言葉だった。
「……本当に、いいんですか?」
ようやく絞り出した問い。
ミハイルは迷いなく答える。
「リタが幸せでいることが、一番大事だ」
その声音はやさしく、揺らぎがない。
けれど、リタの胸には、別の感情が広がっていく。
(……どうして?)
うれしいはずなのに。
どこか、重たい。
自由にしていいは、うれしいのに。
私だけ自由になるは許されるの?
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。
それ以上、ミハイルは何も言わない。
食事のあと、ふたりはいつものようにリビングのソファへ移動する。
並んで座り、それぞれ本を開く。
静かな時間。
ふと横を見ると、ミハイルの横顔。
その距離が、どこか遠く感じられた。
***
夜。
リタはひとり、窓辺に立っていた。
満月が、静かに街を照らしている。
(私は……どうしたいの)
問いが浮かぶ。
働きたい。
その気持ちは、確かにある。
けれどミハイルとの生活も、大切で。
失いたくない。
(どっちも、なんて……)
そんな都合のいいことが、許されるのだろうか。
ふと、思い出す。
――リタが幸せでいることが、一番大事だ。
(……ありがたいの。でも………)
自分のために、譲ってくれているのではないか。
本が好きなのは、きっと館長もだ。
そんな考えが、胸に引っかかる。
(もし、戻ったら……きっと仕事優先になる)
彼を置いていくことになるのではないか。
それは貴族の妻として期待を裏切ることになるのではないか。
不安が、静かに広がっていく。
「……はあ」
小さく息を吐く。
答えは出ない。
どちらも、本当の気持ちだから。
(……でも、答えはださなきゃ)
このままでは、いけないと思う。
本当の気持ちから目をそらしたままでは、何も変わらない。
「……ちゃんと、考えよう」
月明かりの中、そっとつぶやく。
ベッドに入るが、なかなか眠れない。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかる。
そして、いつの間にか、意識は途切れていた。
***
翌朝。
目を覚ましても、答えはまだ見つからない。
けれど胸の奥に、ひとつだけ残っているものがあった。
(……逃げたくない。自分の気持ちから)
その小さな決意だけが、静かに残っていた。




