34.リタ、夫の初めての真実に揺れ動く
その夜。
リタは、なかなか眠ることができなかった。
ベッドに入っても、目を閉じれば思考が巡る。
仕事のこと。
ミハイルのこと。
これからのこと。
(……ちゃんと、話さないと)
そう思うのに、言葉にならない。
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。
小さく息を吐き、リタはゆっくりと体を起こした。
部屋の外は静まり返っている。
屋敷全体が、深い眠りに包まれていた。
(少しだけ……外に出よう。空気を吸いたい)
気持ちを落ち着けようと、そっと扉を開ける。
足音を忍ばせて廊下を歩く。
そのときリビングに、かすかな灯りが残っているのが見えた。
(……館長?)
そっと中を覗く。
ソファに、ミハイルが横になっていた。
本を胸の上に乗せたまま、眠っている。
(また……ここで寝てる)
思わず、口元が緩みそうになる。
「……っ……」
かすかな声が、耳に届いた。
リタの足が止まる。
苦しそうな呼吸。
眉間に深く刻まれた皺。
明らかに、安らかな眠りではない。
「……行くな……」
はっきりとした言葉だった。
胸が、強く打つ。
「……リタ……」
その名前に、息が詰まる。
(……夢?)
苦しそうに顔を歪める姿が、どうしても見ていられなくて。
気づけば、そばへと近づいていた。
「……館長」
小さく呼ぶ。
返事はない。
ただ、荒い呼吸だけが続く。
(どうしよう……)
迷いが、ほんの一瞬。
リタは、そっと手を伸ばした。
ミハイルの手に触れる。
少し、冷たい。
そのまま、指を絡めるように握る。
「……大丈夫です」
自然と、声がこぼれた。
「ここにいますから」
自分でも驚くほど、迷いのない言葉だった。
すると――
「……っ……」
ミハイルの指が、ぴくりと動く。
次の瞬間、強く握り返された。
まるで、離すまいとするかのように。
「……行くな……」
もう一度、同じ言葉。
その声は、あまりにも切実で。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……行きません」
気づけば、そう答えていた。
「どこにも、行きません」
そのまま、しばらく。
リタは手を握り続けた。
静かな夜。
時計の音だけが、一定のリズムで刻まれる。
やがて――ミハイルの呼吸が、ゆっくりと整っていく。
苦しそうだった表情も、少しずつ緩んでいった。
(……よかった)
ほっと、力が抜ける。
そのままソファの横に座り込む。
けれど、手は離せなかった。
(……少しだけ、このまま)
そう思った瞬間。
意識が、ゆっくりと遠のいた。
***
朝。
柔らかな光が、静かに差し込む。
リタは、ゆっくりと目を開けた。
「……っ」
近い。
すぐ目の前に、ミハイルの顔があった。
思わず、体を起こす。
「お、おはようございます……!」
慌てて手を離そうとするが――
「……リタ?」
逆に、強く握られた。
ミハイルが目を見開いている。
「どうして……」
状況を確認するように視線を落とす。
つながれた手。
リタの姿勢。
「……ああ」
小さく息を吐いた。
「……すまない」
「い、いえ……!」
リタは慌てて首を振る。
「その……館長が、うなされていて……」
「……うなされていた?」
「はい……その……」
少し迷ってから。
「“行かないでくれ”って……」
空気が、止まる。
ミハイルの動きが、ぴたりと止まった。
「……そうか」
低く、呟く。
しばらくの沈黙。
リタは、思い切って口を開いた。
「……あの、何か……あったんですか?」
ミハイルは、すぐには答えなかった。
視線を落とす。迷うように。
「……信じられないかもしれないが」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「昔から、同じ夢を見る」
リタの心臓が、強く打つ。
「ある場所で、働いている」
淡々とした声。
「本が並んでいる。だが、こことは違う。本を読む場所ではなく――」
少しだけ、言葉を探すように間を置く。
「……本を“作る”場所だ」
(……出版社……?)
頭の中で、いくつかの可能性が浮かぶ。
けれど、口には出さない。
ただ、静かに聞く。
「そこに、君がいる」
息が止まる。
「……俺は、ずっとそばにいた」
手に、わずかに力がこもる。
「だが――」
短い沈黙。
「君は、いなくなった」
静かな声。
けれど、確かな重みがあった。
「大きな機械が、こちらに向かってきた」
言葉が、少しだけ歪む。
「咄嗟に引き寄せた。だが――」
そこで、言葉が途切れる。
ほんの一瞬だけ、呼吸が乱れる。
「……そのあと、記憶がない」
視線が、遠くを見る。
「気がついたら、この世界にいた」
ゆっくりと、リタへと視線を戻す。
「……それ以来だ」
低い声。
「夢と現実が、混ざるような感覚がある」
まっすぐに、見つめてくる。
「何度も同じ夢を見る」
手を、強く握る。
「ぬくもりも。感触も。すべて、消えない」
わずかに、声が揺れた。
「やっと見つけたと思ったら――」
「また、いなくなる」
「……館長」
自然と、手に力を込める。
「わたし、ここにいます」
迷いなく、言葉にする。
「いなくなりません」
ミハイルの目が、大きく見開かれる。
「……ああ」
かすれるような声の館長。
今たしかに何かが、確かに繋がった気がした。
お互いの気持ちが重なるような錯覚。
朝の光の中。
二人はしばらく、言葉を交わさなかった。
手をつないだまま。互いを離さないように。




