32.リタ、図書館での再会
商業都市・ベルミンガムに到着したとき、リタは思わず足を止めた。
「……懐かしい」
広い通り。行き交う人々。
かつて研修で訪れた街並みが、目の前に広がっている。
あのときは、学院を卒業したばかりだった。
王都とは違う、どこか無骨な空気。
けれど、その奥に確かな熱を感じる。
「ここは……すごいですね」
「商業都市だからな」
ミハイルは淡々と言った。
「各地の品も、人も、知識も集まる。
だから図書館も強い」
「……だから、あんなに蔵書が」
「ああ。王都とは違う種類の本が揃う」
その言葉に、リタは静かにうなずいた。
活気のある空気が、胸いっぱいに広がる。
ほんの少し前のことのはずなのに、もう遠い昔のようだ。
結婚して、環境が変わって。
穏やかな日々に身を置いている今。
――それでも、時折思い出す。
忙しくて、でも充実していた時間。
失敗もあったけれど、それでも前に進んでいた日々。
「どうした?」
隣でミハイルが問いかける。
「いえ……少し、思い出していて」
「そうか」
それ以上は聞かない。
けれど、その視線はどこかやわらかかった。
***
荷物は先に屋敷へ運ばせ、メグは準備のため先に向かった。
久しぶりに、ふたりだけで街を歩く。
そのまま自然に、提携先の図書館へ足を向けた。
扉をくぐった瞬間、空気が変わる。
紙の匂い。静けさ。
整然と並ぶ本棚。
(……やっぱり、ここ好き)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「リタ?」
声に振り返る。
「……あ!」
そこにいたのは、見覚えのある顔だった。
「久しぶりだね、リタ!」
「本当に久しぶり……!」
自然と笑みがこぼれる。
隣国の図書館に勤めるカーラ。今は出張でこの街に来ているらしい。
学院時代の同級生で、図書委員として一緒に過ごした仲だ。
研修で再会してから、何度か手紙をやり取りしたきりだった。
「リタがいた頃、楽しかったね。放課後、カウンターでおすすめの本を読み合ったの、覚えてる?」
「うん……すごく」
懐かしさが一気に押し寄せる。
「もう仕事には戻らないの?」
何気ない問い。
それなのに、胸に小さな痛みが走った。
(……ああ、私)
働くの、好きだったんだ。
「うん、結婚……したから」
そう答えながら、ほんの少し視線を落とす。
「そっか。でも、リタならどこでもやっていけるよ」
カーラは明るく笑った。
その笑顔が、まぶしかった。
***
ミハイルとは入口で別れ、それぞれ本を見て回る。
ここは小さな声であれば会話も許される空間だ。
「最近、何読んでるの?」
「異世界ものが多いかな」
「相変わらずだね」
くすっと笑われる。
「でもね、最近読んだ本で――
ずっと大事なことを言えないままの主人公がいて」
「うん?」
「伝えたいのに、伝えられなくて……
時間だけが過ぎていくの」
カーラは少し考えて、肩をすくめた。
「……それ、現実でもあるよね」
「え?」
「言わないと、伝わらないことってさ」
その言葉に、リタは小さく息を呑んだ。
(……言わないと、伝わらない)
どこかで聞いたような気がした。
けれど、それ以上考える前に、カーラは仕事へ戻っていった。
***
広い館内をひとり歩く。
高い天井。美しい装飾。
この街の図書館は、知識だけでなく歴史も抱えている。
(戻りたい……)
ふと、そんな思いが浮かぶ。
その瞬間、胸が締めつけられた。
(でも……)
今の生活も嫌じゃない。
むしろ穏やかで、満たされている。
それでも――
「……リタ?」
前からミハイルが歩いてきた。
そっと近づき、ぽん、と軽く頭を撫でる。
「どうした?」
「え?」
「疲れたか。屋敷に戻るか?」
「あ……すみません」
考えすぎていた。
「やっぱり、ここが好きなんだな」
静かな声。
否定でも、責めでもない。
ただ、見抜かれているだけだった。
「……はい」
小さくうなずく。
「そうか」
それだけ。
引き止めないその距離が、かえって苦しい。
***
その夜。
リタはひとり、窓のそばに座っていた。
(どうしたいんだろう……)
仕事も好き。
ミハイルも、大切。
どちらも手放したくない。
(でも、両方って……)
答えは出ない。
ただ、気持ちだけが揺れる。
ふと、昼の言葉がよぎる。
――言わないと、伝わらない。
(……でも)
今は、まだ無理だ。
そう思いながら、リタはそっと本を閉じた。
静かな街の夜が、ゆっくりと更けていく。
(……まだ、わからない)
それでもいいのかもしれない。
今はまだ、迷っていても。
そう思いながら、リタは静かに息を吐いた。




