30.リタ、夫との関係に悩む
数日、リタは部屋にこもっていた。
本を開いてはいるものの、ページはなかなか進まない。視線は文字を追っているのに、意味が頭に入ってこないのだ。
いつもなら屋敷の中庭を歩いたり、書庫に足を運んだりするのに――それさえも億劫になっていた。
(……自分が嫌になる……)
ローラは優しい人だ。
ルークも、あんなに愛らしい。
誰かに何かをされたわけではない。傷つけられたわけでもない。
それなのに、顔を合わせるのが怖くて、避けてしまう。
やっと、この屋敷が自分の居場所だと思えたばかりなのに。
気がつけば、また一歩引いて、自分を外側に置いてしまっている。
(結局、場違いなのは……わたし)
そう思った途端、誰にも会いたくなくなる。
今日の予定を尋ねられれば「読書を」と答えるだけで、部屋で食事も取れる。
館長も忙しく、リタの行動に口を出すことはない。
その優しさが、今は少しだけ苦しかった。
――今日こそは、館長に会おう。
そう思って部屋を出た、そのときだった。
廊下の先に、人の気配があった。
「……え、え……ん、で……」
小さな声。
聞き取れない言葉に、足を止める。
そっと近づき、柱の影から様子をうかがう。
そこにいたのは、ローラと館長だった。
ふたりとも、見たことのないほど真剣な表情をしている。
張り詰めた空気に、胸の奥がざわりと揺れる。
「わたしの気持ちを、知ってますよね……」
「気持ち?」
「そうです……ずっと。わたしは……」
「今さらだ」
低く、抑えた声。
「でも……わたしは、小さいころからあなたを……」
「やめてくれ。何度も言ったはずだ」
「それでも……抑えられないんです」
ローラの声が震える。
その頬を、涙が伝っていく。
館長は深く息を吐き、乱暴に髪をかいた。
その仕草が、かつての彼を思い出させて、リタの胸が締め付けられる。
「あなたは兄さんの妻だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……わたしは、あなたと結婚したかったのです」
「ローラは、兄さんの婚約者だっただろう」
ローラは首を振る。
「わたしは……この家に嫁ぎ、二度も夫を亡くしました。それでもなお……あなたを想っているのです」
その言葉に、空気が一瞬止まったように感じた。
「俺にとっては、幼なじみだ。それに――家族だ」
静かな拒絶。
「……そうでしたか?」
涙をぬぐいながら、ローラは問い返す。
「あなたも、同じ気持ちだと……思っていました」
「勘違いだ」
はっきりと、切り捨てる。
「でも……!」
「仮にそうだったとしても、だ」
館長の声が、わずかに強くなる。
「俺には大切な人がいる。……過去の話だ」
その言葉に、リタの心臓が強く打った。
「……わたしを、支えてはくれないのですか」
次の瞬間、ローラが館長に縋りついた。
リタの視界が揺れる。
息が浅くなり、足がすくむ。
「ああ……ローラにはルークがいる」
館長の声は、静かだった。
「兄さんの忘れ形見だ。あの子を一番に考えてくれ」
「……母親ひとりで、何ができるというのですか……」
「不自由はさせない」
「ルークには、父親が必要です……」
「父親だけで育てるわけじゃない。両親もいる。屋敷の者もいる……リタもいる」
その名前に、びくりと肩が揺れる。
「……でも……」
「悪いが、俺は応えられない。今までも、これからもだ」
きっぱりとした拒絶。
「……そんな……」
ローラの肩が崩れ、嗚咽が漏れる。
館長はメイドに合図し、彼女を部屋へと下がらせた。
やがて、足音が遠ざかる。
「……はあ……」
重いため息を残して、館長もその場を去っていった。
どれくらい、そこに立っていただろう。
リタは動けなかった。
胸の奥に、いくつもの感情が渦巻く。
安堵。
――ちゃんと、断ってくれた。
理解。
――ローラの気持ちは、痛いほどわかる。
そして――言葉にできない、小さな痛み。
(……どうしたら、いいんだろう)
ローラは、この家に嫁ぎ、二度も夫を失った。
それでも、この場所に留まり続けている。
支えを求めるのは、当然のことだ。
リタには、何もできない。
理解はできても、答えは出せない。
ただ――
(ルークは、守りたい)
それだけは、はっきりしていた。
けれど胸の奥に、棘のようなものが残る。
館長の言葉は、嬉しかったはずなのに。
そのはずなのに――
どこか、素直に喜べない自分がいる。
リタはゆっくりと目を閉じた。
誰も悪くないのに、苦しい。
想いが重なるほどに、息が苦しくなる。
静かな廊下に、ひとり取り残されたまま。
リタは、答えの出ない感情を抱えたまま、ただ立ち尽くしていた。




