29.リタ、初めての嫉妬に悩む
思いを通じてからというもの、日常はほんの少しだけ、けれど確かに甘さを増していた。
その変化に、リタはどうしても慣れることができない。
朝、鏡の前で支度をしていると、頬がほんのり赤く染まっているのがわかる。それを見て、さらに恥ずかしくなってしまうのだからどうしようもない。
「奥様、今日はどのような髪型にいたしましょうか」
後ろから、メグの穏やかな声がかかる。
「えっと……お任せします」
「かしこまりました。では、この前ミハエル様がお好きだと仰っていた、淡いイエローのドレスに合わせてまとめましょうか」
その名前を聞いた瞬間、リタの肩がぴくりと揺れた。
(ミハエル様……)
対外的にはそう呼べるのに、ふたりきりになるとどうしても「館長」と呼んでしまう。
長年そう呼んできた癖は簡単には変わらないし、なにより――恥ずかしい。
名前を呼ぶだけで、顔が熱くなるのだ。
そんなリタの様子を知ってか知らずか、彼はただ穏やかに微笑むだけで、無理に変えさせようとはしない。
それがまた、くすぐったくてたまらなかった。
最近は、食後にふたりでソファに並び、本を読む時間が何よりも心地よい。
特別なことをしているわけではない。ただ同じ空間にいて、同じ時間を過ごす。それだけなのに、胸の奥が満たされていく。
けれど――
ふと視線が重なった瞬間、リタは息を詰めてしまう。
ほんの一瞬、目が合っただけなのに。
その視線が、まるで逃がさないとでも言うようにやわらかく絡んでくる。
見つめ合う時間は、ほんの数秒のはずなのに、ひどく長く感じてしまう。
耐えきれずに目をそらすのは、いつもリタのほうだった。
(こんなの……慣れる日なんて来るのかな)
そう思いながらも、横顔を盗み見るのをやめられない。
最近は、彼の目の下の隈も少しだけ薄くなってきていた。
食事もきちんと取るようになり、休める時間も増えたのだろう。以前よりも、ずっと穏やかな表情をしている。
あの頃――書庫にこもり、何かに追われるように本を読み続けていた彼。
その姿を思い出すと、胸の奥がわずかに痛んだ。
(あのとき、何を焦っていたんだろう)
知らない過去がある。知らない時間がある。
年上の彼には、リタの知らない人生がいくつもある。
すべてを知ることはできない。
それでも――
(少しでも、分かり合えないのかな……)
そう思うことは、わがままなのだろうか。
静かな幸福の中に、かすかな不安が混じる。
それでも、そのぬくもりを手放したくないと思ってしまう自分がいた。
***
「奥様、そういえば来週、ローラ様がルーク様とこちらにいらっしゃるとのことです」
髪を整えられながら、メグが何気なく告げる。
「……え」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
分かっていたはずだった。
準備が整えば来ると、事前に聞いていた。
けれど、いざその日が近づいてくると、どうしても気持ちが沈んでしまう。
――金曜日の女神。
そう呼ばれていた女性。
館長の幼なじみであり、兄たちの妻だった人。
誰もが認める美しさと、洗練された所作。
比べること自体が間違っているとわかっていても、どうしても心が揺れてしまう。
(わたしなんて……)
そう思う自分が、いちばん嫌だった。
もう、ミハイルとは思いを通じ合った。
だがちっとも自信なんてなかった。
***
そして、その日が訪れた。
屋敷の前に馬車が止まり、扉が開く。
白いドレスに身を包んだローラと、青い服を着たルークが姿を現した。
「リタ、遊びにきたよ」
ルークが駆け寄ってきて、無邪気に笑う。
「長旅、大変だったでしょう。大丈夫だった?」
「うん、もう慣れっこだよ」
その笑顔に、自然と頬が緩む。
ふと視線を上げた先に、館長と並ぶローラの姿があった。
ふたりが並び立つと、あまりにも自然だった。
まるで最初からそこにあるべき形のように。
言葉にしなくても分かってしまう。
積み重ねてきた時間の差。
共有してきた過去の重み。
(……わたしなんか、かなわない)
そう思った瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
「リタ?」
裾を引かれて我に返る。
見上げると、ルークが心配そうにこちらを見ていた。
「……大丈夫よ。中に入りましょうか」
笑顔を作る。
うまくできている自信はなかった。
***
それから数日、リタはルークと過ごす時間が増えた。
ローラは体調を崩しやすく、部屋で休んでいることが多い。
その間、ルークの勉強を見たり、本を読んだりする。
穏やかな時間。
けれど、時折目に入る光景が、リタの心を重くする。
中庭を歩く、館長とローラ。
自然に並び、言葉を交わすふたり。
そこには、迷いも遠慮もない。
ただ、長い時間で築かれた関係があった。
(……わたしは、場違いなのかもしれない)
その思いが、胸の奥に沈んでいく。
消そうとしても、消えない。
ふくらんでいくばかりだった。
食事の席では、まだ穏やかでいられる。
「今日はリタと植物の本を読みました」
「この時期にしか咲かない花もあるな」
ルークと館長の会話は自然で、温かい。
その光景は、どこか家族のようにも見えた。
(ここにいないほうがいいのは、わたしじゃない?)
そんな考えが、頭をよぎるった。
リタはあまりそのあとの記憶はない。
自分がそこにいた感覚がなかった。
その日の夜、ひとりベッドに入っても、眠れない。
隣には、優しい眼差しを向けてくれる人がいるのに。
なぜか距離を感じてしまう。
自分が遠ざけているのだと、分かっているのに。
「はあ……」
小さくため息がこぼれる。
胸の奥に溜まったものは、吐き出しても消えなかった。
好きなのに、苦しい。
満たされているはずなのに、不安になる。
答えのない感情が、静かにリタを蝕んでいく。
眠れぬ夜は、まだ続いていた。




