28.リタ、館長に聞いてみた
リタは、数日では足りないほど悩んでいた。
館長の真意を知りたい。
そう決めたはずなのに――
いざ彼を目の前にすると、何も言えなくなる。
(……もしかして)
あれは聞き間違いだったのではないか。
「好き」という言葉の意味を、自分が勝手に重く受け取りすぎただけなのではないか。
「好き……」
ぽつりと呟いて、リタは頭を抱えた。
これまで知っていた“好き”は、本の中のものだ。
胸が苦しくなって、落ち着かなくなって、鼓動が早くなる。
困難があって、涙があって、それでも最後には結ばれる。
そんな物語を、何度も読んできた。
だからこそ、恋とは――
甘くて、苦しくて、それでも美しいものだと思っていた。
けれど、現実は違う。
胸が躍るどころか、不安と恐怖のほうが大きい。
嫌われたらどうしよう。
自分の気持ちが見当違いだったらどうしよう。
答えの出ない問いがぐるぐると回り、ため息ばかりが増えていく。
リタの様子がおかしいことは、館長も気づいているはずだった。
それでも、何も聞いてこない。
きっと――待っているのだ。
リタが、自分で言葉にするのを。
そういう人だから。
でも、何をどう言えばよいかわからない。
「わたし、経験がなさすぎるから………」
***
それから一か月。
ある夜リタは、ようやく決意した。
夕食を終え、隣り合うソファで静かな時間が流れているとき。
リタは、意を決して正面に座り直した。
館長は少し不思議そうに目を向けたが、何も言わずに頷く。
「あの……」
声が少し震える。
「この前のこと、なのですが……」
「この前?」
館長は首をひねり、少し考える。
そして――
「……なんだったか」
本当にわからないらしい。
リタは一瞬、言葉を飲み込みかけた。
けれど、ここでくじけてはだめだ。
また、悩み続けるだけだ。
「私のこと、好き……とか」
言ってしまった。
その瞬間、館長の目がわずかに見開かれる。
けれど、すぐに――柔らかな笑みが浮かんだ。
「ああ、それか」
あまりにもあっさりと。
「言葉のままだが」
「そ、それが……どういう意味なのか……」
自分でも情けないと思う。
それでも、聞かずにはいられなかった。
館長は、少しだけ真剣な顔になった。
「リタのことを――妻として、愛している、という意味だが」
その言葉は、静かだった。
けれど、確かに重く、まっすぐだった。
リタの胸の鼓動が早まる。
「それって……」
うまく言葉にならない。
館長は、ほんの少し視線を落としてから続けた。
「初めて会ったときからだ」
その一言に、リタは息を呑む。
「懐かしいような感覚があった。……そして、二度と離してはいけないと思った」
そんなふうに思われていたなんて。
ずっと、自分だけの片思いだと思っていたのに。
胸の奥にあった不安が、少しずつ消えていく。
「私はずっと、君が好きだった」
まっすぐな視線。
「けれど、言えなかった」
「……どうして」
「壊したくなかったからだ」
短い答えだった。
「え……?」
「職場で、あの距離で、関係を続けていれば……それでよかった。そう思って、逃げていた」
くしゃ、と前髪をかきあげる。
その仕草が、どこか不器用で。
リタの胸が、きゅっと締めつけられる。
「情けない話だろう?」
「そんなこと、ありません」
思わず言葉が出た。
「わたしだって……同じです」
視線を落としながら、続ける。
「こんなことがなければ、きっと……本に囲まれて、一生終わると思っていました」
館長が、わずかに笑う。
「俺もだ」
短く、でもどこか安心したように。
「あの空間で、リタと二人でいる。それで満足していた。……あの時間がずっと続くと、勝手に思っていた」
「わたしもです」
自然に言葉が重なる。
「結婚なんて、考えたこともなくて……だから、今がまだ信じられません」
「奇遇だな」
館長の声が、少し柔らかくなる。
「俺もだ」
一瞬の沈黙。
けれど、気まずさはなかった。
むしろ――懐かしい。
「わたしたち、似てますね」
「知らなかったのか?」
少し意地の悪いような口調で返される。
「職場ではよく言われていたぞ」
「え……そうだったんですか?」
思わず顔を上げる。
館長は、少し楽しそうに笑った。
その空気に、リタもつられて笑ってしまう。
まるで、あの頃のように。
仕事の合間に、何気ない会話をしていた時間のように。
夫婦になってから、どこか気を張っていた。
失礼がないように。
恥ずかしくないように。
そんなことばかり考えて、本当の会話ができていなかった。
(やっぱり………)
この人の前にいるときの自分が、一番自然だ。
館長が、リタを見る。
視線が合う。
そして、静かに微笑んだ。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
――自分も、愛されていた。
そして、愛されている。
その事実が、ゆっくりと心に染み込んでいく。
安心と、喜びと、少しのくすぐったさ。
それらが混ざり合って、リタの中に根を下ろしていく。
この瞬間、ふたりの関係は、ようやく本当の意味で、夫婦になり始めていた。




