3.リタ、結婚を受け入れる
「館長!」
「……まだ、いたのか」
就業時間はとっくに過ぎている。
同僚たちは皆、帰ったあと。
図書館はいつもの静けさを取り戻していた。
残業は基本、ない職場。
けれど――この人だけは、例外。
リタは地下書庫へと足を踏み入れる。
ひんやりとした空気。
紙と古いインクの匂い。
そこに、彼はいた。
ランプの明かりの下で、古書に向き合う背中。
(やっぱり……)
数日前に気づいたこと。
館長は最近、ここにこもっている。
寄贈された古書の整理。
古く、傷みも激しいそれらは、簡単に扱えるものではなかった。
文化的価値は高い。
だが、すべてを保存できるわけでもない。
復元できるもの。できないもの。
学者と議論しながらの選別作業。
そして最終的に責任を引き受けたのは、館長だった。
(やっぱり、こういうところ……)
無理をする。でも、それを言わない。
「何か、お手伝いできることがあれば」
声をかける。館長は一瞬だけ目を上げた。
「……助かる。あの棚の本、取ってくれ」
「はい」
棚には大量の本。だが、迷いはなかった。
(次に使うのは、これ)
リタは一冊を取り出す。
「それでいい。……隣の棚は?」
「このあと整理ですよね。入れ替えますか?」
館長がわずかに目を細める。
「……ああ」
短い返事。それだけで、通じる。
言葉が少なくても、理解できる。
この時間が、リタは好きだった。
静かで。無駄がなくて。落ち着く。
(……本当に、老夫婦みたい)
ふと、カヤの言葉がよぎる。
「なあ、リタ」
館長が手を止めた。
「……俺たち、案外似合うと思うんだ」
「……え?」
予想外の言葉。思わず本を落としそうになる。
「夫婦として、だ」
静かに、続けられる言葉。現実味のない響き。
「……夫婦?」
「俺の説明が足りなかったな」
館長は少しだけ視線を逸らす。
頬をかく仕草。珍しい、照れの色がある。
「俺は、結婚する必要がある」
淡々とした声。けれど、その奥にあるもの。
「伯爵家の三男だ。家督が回ってくるとは思ってなかった」
すっと目を伏せてからふっとリタに視線を向けた。
「だが、兄が亡くなった」
静かな事実。重い現実。
「領地は、放棄できない」
言葉に、迷いはない。
「受け入れてはいるそれでも……この仕事を離れるのは、惜しい」
ぽつりと零れた本音。リタは、胸が少し締まる。
「館長は……それでいいんですか」
「納得はしている。ただ、一つだけ」
視線が、まっすぐ向く。
「心残りがある、お前だ」
「……わたし?」
ただただ戸惑い目を見開く。
「急な話だ。気持ち悪いと思われても仕方ない」
自嘲気味の声。
「だが、領地にはパートナーが必要だ」
現実。責任、それが貴族だ。
「俺の性格じゃ、誰でもいいわけにはいかない」
言葉を選びながら、ゆっくりと言葉に力を込める。
「見た目だけの相手は、いらない」
その一言に、重み。
「でも……私、貴族のことなんて」
「最初から分かる必要はない」
即答。迷いのない声。
「俺が教える。リタは今まで通りでいい」
それだけでいい、と。
リタを見つめる瞳。
嘘のない色。
(……どうして、私なんだろう)
問いは浮かぶ。
けれど答えは、もう関係なかった。
ずっと好きだった人。
手の届かないと思っていた人。
ただ、そばにいられるだけでよかった。
それなのに………。
「……わたしで、本当にいいんですか」
「もちろんだ」
迷いのない返事。今はそれだけで、十分だった。
「……結婚なんて、よく分かりません。でも、館長のそばで働けるなら」
「それでいい」
館長の声が、少しだけ柔らかくなる。
「今まで通り、そばにいてくれ」
それだけでいい、と。
「……はい」
小さく頷く。胸の奥が、じんわりと熱い。
(こんなこと、あるんだ……)
恋だと気づくのも遅かった自分が。
好きな人と、結婚する。現実感のない未来。
それでも、そばにいられる。
それだけで――胸が、少し苦しいくらいに満たされていた。




