26.リタ、初めての一緒の夜
領地へ到着した。
長旅の疲れを感じる間もなく、屋敷の人々が温かく迎えてくれる。
「おかえりなさいませ、ミハエル様」
「奥様も、ようこそお越しくださいました」
柔らかな笑顔と、自然な所作。
リタは思わず肩の力が抜けた。
「リタです。」
初めての場所なのに、不思議と安心する。
王都で学んだ知識は確かに役に立つ。
けれど――風の匂い。土の湿り気。
人の声のやわらかさ。
それらは、実際に来てみなければわからないものだった。
その夜、土地の食材を使った料理が振る舞われた。
素朴で、けれど豊かな味わい。
温かい食卓に囲まれながらも、リタの心はどこか落ち着かなかった。
(……ステキな部屋)
案内された寝室を見て、固まる。
広いベッド。整えられた寝具。
そして――ひとつしかない部屋。
(まさか……)
当然だ。この屋敷では、ふたりは夫婦なのだから。
今までとは違う。
わかってはいた。
けれど、実感として突きつけられると、心が追いつかない。
そのまま、時間だけが過ぎていく。
そして――やはり、館長は来なかった。
(……やっぱり)
ほっとした。
同時に、ほんの少しだけ――寂しいと思った。
***
朝、目を開けた瞬間、違和感があった。
(……あれ)
視界の端に、やわらかな色が映る。
ベッドのそばに、花瓶に活けられた花。
それは、リタが好きな種類だった。
咲きたてのように瑞々しく、ほのかに香る。
(……どうして)
屋敷の人の気遣いかと思った。
けれど、ベッドの隣。
わずかに乱れたシーツ。
――誰かが、ここにいた。
「ああ、おはよう」
声に振り返る。
寝間着のまま、新聞を手にした館長がそこにいた。
「リタ、眠れたか?」
「……っ」
心臓が跳ねる。
こんな朝は、初めてだ。
「長旅だっただろう。疲れていないか」
「だ、大丈夫です……」
うまく視線を合わせられない。
花へと視線を逃がす。
館長はそれを見て、わずかに口元を緩めた。
何も言わない。
ただ、静かに見守っている。
それだけなのに――胸の奥が、じんわりと温かくなる。
こういうのが、“夫婦”なのかもしれない。
派手なことは何もない。
けれど、確かにここにある温もり。
「今夜、少し時間が取れそうだ」
ふいに、館長が言った。
「夜、時間をくれないか」
リタは目を見開いた。
(え……)
今まで、一度もなかったのに。
「……はい」
それでも、迷いはなかった。
「ありがとう」
館長は静かに頷いた。
「こちらでは、少しは落ち着ける。やっとリタと話す時間が取れそうだ」
その言葉に、胸が少しだけ締めつけられる。
「昼間は用事があるが、何か必要なものがあれば買いに行くといい」
「はい」
本当は、特に欲しいものはない。
けれど、言われた通り、近くの商店へ出かけることにした。
***
夜の静かな時間が訪れた。
窓の外には、深い闇と星の光。
部屋には、柔らかな灯り。
館長とふたりきり。
それだけで、どこか息が詰まりそうになる。
嫌ではないが緊張感がぬぐえない。
それをまぎらわせるよう、何気ない会話が続く。
今日のこと。領地のこと。ささいな話。
その中で――ふと。
「リタ」
館長が、名前を呼んだ。
「……はい」
一瞬、空気が変わる。
そして……
「君が好きだ」
静かな声だった。
それなのに、すべてを揺らすような一言。
衝撃が走る。
「……え」
息が止まる。頭が真っ白になる。
何も考えられない。
ただ、目の前の人を見つめることしかできない。
こんな言葉をもらえるなんて、思っていなかった。
ずっと、片思いだと思っていたのに。
胸の奥に溜まっていた何かすっとおりた。
けれど、とっさの言葉が出ない。
何も言えない。
館長は、それ以上何も言わなかった。
それから、小さく微笑み、ただ静かに立ち上がる。
「今日はもう休め」
それだけ言って、部屋を出ていった。
リタはひとり取り残される。
静かな部屋に戻る。
しかし、鼓動は速まったままに。
(……どういうこと)
好き。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
嬉しいはずなのに、戸惑いの方が大きい。
自分の気持ちが、わからない。
いや、わかっているのに、認められないだけかもしれない。
思考を整理しよう、そう思って横になる。
ベッドに入っても、眠れない。
胸の鼓動が、ずっと早いまま。
目を閉じても、浮かぶのは彼の顔。
(……わたしは)
どうしたいのだろう。
その答えは、まだ見つからないまま。
リタは長い夜を、ひとりで過ごした。




