23.リタ、小さな妖精に出会う 3
「リタ。最近、機嫌がいいようだが。何か面白い本でも見つけたのか?」
「え、わたし、機嫌がよく見えますか?」
「いや。食事が終わると、いつもそわそわと出ていくからな。読みたい本でもあるのかと思った」
「本! 館長、ありがとうございます」
「……何だ?」
「本です。先日いただいた鍵のおかげで、新しい本がたくさん読めています。読みたい小説が多すぎて、時間がいくらあっても足りません」
館長は少しだけ目を細めた。
「それはよかった。不便はないか?」
「とても良くしていただいています。ただ……」
「ただ?」
「領地のことを勉強していますが、本に書かれていることだけでは、きっとわからないことも多いと思っていて。少し心配なんです」
リタがそう言うと、館長は静かに頷いた。
「あちらへ行けば、実際に領民の話を聞くことになる。俺も家から話は聞いていたが、実際にこの立場になってみると、本で得た知識だけでは足りないことも多い」
そこで一度言葉を切る。
「新米夫婦なんだ。二人でやっていこう」
「はい」
その言葉だけで、胸の奥がほんのりあたたかくなる。
「こうして館長と一緒に朝ごはんを食べていると……少しずつ、結婚したんだって実感がわいてくる気がします」
「結婚してから、まとまった時間が取れなくて悪いな」
珍しく、館長の方からそんなことを言った。
「事務作業や手続きが立て込んでいる。こうしてゆっくり話せるのも、今は食事の時間くらいだ」
「お忙しいのはわかっています」
「もう少し落ち着いたら、旅行でもどうかと思っている」
「旅行、ですか?」
「ああ。新婚旅行というやつだな。隣国へ視察も兼ねて出かけるのも悪くない。新婚なんだ、それくらい許されるだろう」
新婚旅行。
その響きは、まだどこか他人事のようだった。
「領地へ行くのは、いつ頃になりそうですか」
「あと一か月ほどだろう。しばらくは王都と領地を行き来する生活になる。予定では、一年の半分くらいはあちらで過ごすことになるはずだ」
「わたしは……館長についていきます」
そう言いながら、リタは少しだけ先の暮らしを思い浮かべた。
王都を長く離れたことは、これまでほとんどない。
あるとすれば、母方の祖父母の村に預けられたときくらいだ。
それも長期休暇の間だけ。
気楽なものだった。
でも、これからは違う。
王都と領地。
二つの場所を行き来して暮らすのだ。
今までとは、何もかもが変わるだろう。
それに――ルークと過ごす、今の時間も。
あと一か月もすれば、こうしてゆっくりお茶をすることは難しくなるかもしれない。
今しかない時間。
そのことを思いながら、リタは朝食を終えた。
*****
「リタ、今日はどんなお話をしてくれるの?」
「そうね……今日は、異世界に飛ばされてしまった女の子のお話にしようかしら」
「異世界って、僕は考えたことがなかったよ」
ルークは借りた本の表紙を眺めながら、小さく首を傾げた。
「自分が住んでる世界じゃない場所なんて、想像したことなかったもの」
「ええ、わたしもそうだったわ。でもね……館長が教えてくれた本には、異世界のお話がたくさんあったの」
「リタって、ミハイル様のことを館長って呼ぶよね」
「……そうなの」
少しだけ気まずくて、リタは曖昧に笑った。
「慣れなくて。なるべくミハイル様って呼ぼうと思っているのだけれど……なんだか恥ずかしくて」
「なんで?」
「ずっと館長って呼んできたから、急に変えるのが変な感じで……」
「それは、わかるかも」
ルークが頷く。
「ルークにも、そういうことがあったの?」
いつもの部屋。窓辺の椅子。お茶と本。
ルークは本を膝にのせたまま、少しだけ視線を落とした。
「僕ね、ずっとお母様と離れて暮らしていたの、知ってる?」
「うん」
「一緒にいたのは、おばあ様だったんだ。身の回りのことをしてくれる人もいて……僕、その人のことをママって呼んでた時期があるの」
リタは息をひそめた。
「小さい頃の話だよ。でも、それっていけないことだって、ちゃんとわかってた。絶対、お母様が悲しむって」
「……そうだったの」
「これ、リタとの秘密ね?」
ルークは少しだけ笑って、でもその笑顔はどこか無理をしているようにも見えた。
「僕、お母様に捨てられたのかもしれないって思ったこともあったんだ。もう迎えに来てくれないんじゃないかって」
リタの胸がきゅっと痛んだ。
けれどルークは、慌てるように首を振る。
「でも、寂しいばっかりじゃなかったよ。友達もいたし、育ててくれた人の家の子たちとも兄弟みたいに育ったんだ」
リタが悲しそうな顔をしたのがわかったのだろう。
ルークは明るく言い直した。
「それでね。お母様が迎えに来てくれたんだ」
青い瞳が少しだけ揺れる。
「僕、最初は“お母様”って言えなかった。忘れられてたんじゃないかって、怖くて」
「……うん」
「でも、お母様、僕の顔を見たら泣いちゃって。ずっと会いたかったって言ってくれたんだ」
か弱そうに見えるローラ。
けれど、ルークを見る目はやさしかった。
あれが作りもののはずがない。
ルークと離れて暮らしていた事情はわからない。
でも、きっと彼女にも、どうしようもない事情があったのだろう。
立て続けに夫を亡くし、病も重なったとすればなおさら。
リタはルークの小さな横顔を見つめながら、そっと紅茶に口をつけた。




