22.リタ、小さな妖精に出会う 2
次の日。
リタは午前のお稽古を終え、昼食を済ませたあと、また日当たりのよいガラス窓のそばで本を読んでいた。
この部屋の椅子は、年代物の革張りだ。
深く腰かけると、体が自然に背もたれへ沈んでいく。
その座り心地があまりにいいものだから、ページをめくる手が止まらなくなる。
気づけば、いつも時間を忘れてしまうのだ。
椅子の前に置かれたアンティークのローテーブルもまた美しかった。
長い月日を経て深まった色つや。
丸みを帯びた縁には、どこか手になじむようなやさしさがある。
古い家具というのは不思議だ。
人がいなくても、人の気配だけは残しているように思える。
だからこの部屋は、無機質ではなかった。
窓から差し込む陽の光が、ガラス越しにやわらかく揺れる。
開いたページの上にこぼれる光もまた綺麗で、見ているだけで心がほどけた。
今日は、ティーカップを二つ用意してある。
ルークが来るかもしれない、と思ったからだ。
けれど、別に期待しすぎていたわけではない。
来られない用事もあるだろうし、子どもには子どもの都合がある。
ただ、もしまた会えたなら、それは森で妖精に出会うみたいに、少しだけ素敵な時間になるだろうと思っただけだ。
そんなふうに軽く考えながら、本の続きを読み始める。
数ページも進まないうちに――
こんこん、と遠慮がちに窓を叩く音がした。
顔を上げる。
そこには、黄金色の髪をした少年が立っていた。
目を丸くして、まっすぐこちらを見ている。
「こんにちは」
リタが窓を開けると、ルークは少し緊張したような声で言った。
「こんにちは」
昨日と同じ声。
でも、今日は少しだけ意を決してきたような響きがあった。
「あそこの扉から中庭に入れるの。入ってまっすぐ進むと、ここの部屋の扉があるわ。黄色い花を飾ってあるから、すぐわかると思う」
「あそこ?」
ルークは中庭へ通じる扉を指差す。
「鍵、開いてる?」
「さっき確認してきたから大丈夫」
「うん!」
軽い返事。
ルークはぱっと駆け出した。
その様子があまりに小動物みたいで、リタは思わず笑ってしまう。
窓を閉めてから、今度は部屋の扉を開ける。
廊下に出て待っていると、やがて中庭側の扉が開き、小さな足音が近づいてきた。
自然と笑みが浮かぶ。
ルークは六、七歳くらいだろうか。
顔立ちはまだ幼いが、もっと小さく見える瞬間もある。
けれど、所作はきれいだった。
頭の下げ方も、立ち方も、ちゃんとしつけられているのがわかる。
リタ自身、今まさにマナーを学んでいる最中だからこそ、それがよくわかった。
「リタ!」
「ルーク、いらっしゃい」
ルークは扉の前できちんと立ち止まり、軽くノックしてから名前を呼んだ。
なんて可愛いのだろう。
リタはそばに行き、部屋の中へと案内する。
自分の向かいにある、同じ革張りの椅子へ座るよう勧めると、ルークは浅く腰かけた。
「僕、こっちの館に来るの、あんまりないから……入ってよかったのかなって」
「そうなの?」
「うん」
少し不安そうな顔。
「でも、大丈夫だと思うわ。わたし、この部屋は好きに使っていいって言われてるし」
リタにとって必要なのは、本と、静かな場所だけだ。
書庫があり、日当たりのいい部屋があるなら、それで十分だった。
だからこの部屋を選んだのだ。
「僕、たぶんリタに会ったことある」
「……うん。わたしもそんな気がする」
お互いの顔を見ているうちに、昨日よりもはっきりとわかってきた。
どこで会ったのか。
「「結婚式!」」
ぴたりと声が重なる。
あまりに見事に重なって、二人で顔を見合わせたあと、くすくす笑ってしまった。
こういうところも、少し似ている気がする。
「あのお嫁さん、リタだったんだね」
「ローラ様の息子さん……」
ローラに似ている。
それはすぐにわかった。
輝く金髪と、澄んだ青い目。
華やかな顔立ち。
けれど、まなざしの奥には、館長に似た利発さがあるようにも見える。
「そっか。リタが領主様の奥さんなんだ」
「……館長は領主様になるのかもしれないけど、わたしはまだ奥さんとして勉強中よ」
「奥さんって、勉強するの?」
「するみたい」
リタは少し笑った。
「領地のこととか、暮らしのこととか。どんな食べ物があるのか、お天気がどうなのか、とか」
「僕、知ってるよ!」
ルークの顔がぱっと明るくなる。
「ずっと住んでたもの」
「そうだった。おばあ様と一緒に暮らしてたって言っていたわね」
「うん。お父様が死んじゃって……母様も病気になっちゃったから、母様の母様と一緒に離れで暮らしてたんだ」
さらりと言うけれど、その言葉は軽くない。
リタは一瞬だけ、胸がしんとした。
でもルークはすぐに続けた。
「だから僕、領地のこといろいろ知ってるよ」
「じゃあ、いろんなこと教えてくれる?」
「うん!」
迷いのない返事。
「その代わり、王都のこと教えてくれる?」
「ええ、もちろん。ただ、庶民の行くところしか知らないけど」
「それがいい!」
にこにこしている。
その笑顔を見ていると、胸の奥にやわらかいものが広がっていく。
春の野花がいっせいに咲いたみたいな、こそばゆくて、あたたかい感覚。
特別に子どもが好きなわけではない。
けれど、ルークは違った。
まだ出会って二日目なのに、不思議なくらい自然に心がほぐれる。
「ルーク、お茶はいかが?」
リタはティーポットを見た。
「美味しいクッキーもあるのよ。ミセス・ココアの」
「いただきます!」
ぱっと顔が明るくなる。
クッキーを一枚、そっとつまむ。
小さな音を立ててかじったあと、目をきらきらさせた。
「……おいしい!」
その反応だけで、もう十分だった。
リタも思わず笑ってしまう。
ポットからお茶を注ぎ、ソーサーごとルークの前に置く。
ルークは小さく会釈をした。
その仕草まできちんとしていて、可愛いのに妙に立派だった。
「わたしもいただきます」
リタも自分の分を注ぎ、花の形のクッキーを一枚手に取る。
中央に小さな黄色があしらわれたクッキー。
ひとくち齧ると、香ばしい小麦の香りと、ココアの深い風味が口いっぱいに広がった。
ミセス・ココアの菓子は、いつも丁寧だ。
素材の組み合わせにも、細やかなこだわりがある。
実家のパンに使っている小麦を紹介したこともあって、商品によってはそれが使われていることもあった。
そういう職人気質なところも、リタは好きだった。
前世では、袋に入った菓子を選ぶことが多かった。
作られる過程に、そこまで意識を向けたことはない。
けれどこの世界では、一つ一つに人の手があるのがわかる。
数は少なくても、その分、きちんとこだわりがある。
リタは紅茶をひとくち飲みながら、目の前のルークを見つめた。
甘いクッキーに夢中になっているその姿は、見ているだけで心がやわらかくなった。




