20.リタ、目が覚めたあのころを思う 3
リタは王立図書館に就職希望を出し、いくつかの面接を経て内定通知を受け取った。
前世でも就職活動は経験している。だからか、どこか二度目のような感覚があった。
リタの前世の記憶は、小学生のころからある。
特別な能力はなかった。けれど、穏やかで平和な日々だった。
そして――いつも、片思いをしていた。
小学校では、隣の家の足の速い男の子。
中学では、サッカー部の先輩。
高校では、通学路ですれ違う男子高生。
短大では、アルバイト先の年上の大学生。
けれど、どの恋も同じだった。
気持ちを伝えることはできず、ただ心の中で終わっていく。
受け身でいることは楽だった。変わらない日常は、安心できた。
だから――それでもいいと思っていた。
けれど同時に、後悔もあった。
もし、あのときもう少し勇気を出していたら。
「……好き、だったのにな」
ぽつりと、記憶の奥でつぶやく声がした。
ほんの一歩、近づけていたら。
そんな「もしも」が、心の奥に残っていた。
忙しい日々の中で、ふと空を見上げると考えてしまう。
――私は何のために生きているのだろう。
恋もせず、ただ淡い想いだけを抱えて。
このまま終わっていくのだろうか。
そんな漠然とした不安。
もし、もう一度チャンスがあるなら。
今度こそ、自分の気持ちを伝えたい。
そう思った記憶が、確かにあった。
そして――その先の記憶は、途切れている。
思い出せるのは、断片だけだ。
スーツを着た自分。
向かい合う、同じくスーツ姿の男性。
そして――突っ込んでくるトラック。
「危ない!」
その瞬間、誰かに抱きしめられた。
守るように。覆うように。
「守るから……」
低くて、やさしい声。
その先は、もう思い出せない。
ただ、ひとつだけ。
彼の笑顔だけが、やけに鮮明に残っている。
まぶしくて。自分とは不釣り合いだと思っていた。
けれど、一緒に過ごすうちに――
初めて、気持ちを通わせることができた気がした。
あれは、夢だったのだろうか。
たまに見る夢。スーツを着る女性の記憶とは違う。
白いワンピースを着た少女。
大きな木の下。白い花、一緒にいる男の子。
やわらかな光に包まれて、笑い合っていた。
淡い気持ちを、ちゃんと伝えられた――そんな幻想。
いくつもの記憶が重なり淡く消えていく。
そして気が付けば、リタとして生まれていた。
リタとしての人生は、穏やかだった。
家にはいつもパンの香りがして、
父が焼いたパンが並び、母が明るく店を切り盛りする。
ときどき手伝いをしながら、
このままパン屋を継ぐのもいいかもしれないと、思ったこともある。
けれど両親は言った。
――学校には行っておきなさい。
その言葉の通り、兄も、リタも、妹も。
三人とも王立学院へ進学することになった。
平民の子が最高学府に通うことは、当たり前ではない。
けれど今の王国には、庶民にも学びの機会が与えられていた。
その流れの中で、リタは図書館司書として就職できた。
――恵まれている。
それは、ずっとわかっている。
家族も、環境も、仕事も。
すべてが穏やかで、満たされていた。
ひとつだけ足りないものがあるとすれば――
あえて言うなら、恋だった。
今世のリタには、恋愛がなかった。
兄は優秀で、妹は明るくて人に好かれる。
家族だけで、すでに世界は満ちていた。
友人もいる。けれど、強く執着することはなかった。
誰かに強く惹かれることもなかった。
――あの人に出会うまでは。
中庭のベンチで、本を読んでいたあの人。
ミハイル館長。
気が付けば、目で追っていた。
同じ職場で働くようになってから、その距離は一気に近くなった。
恋になるのに、時間はかからなかった。
けれど、久しぶりの恋は、あまりにも強すぎた。
胸が痛くなるほど、鼓動が早くなる。
近くにいるだけで、息が苦しくなる。
(だめ。仕事中に、こんなこと考えちゃ……)
だから、リタはそれを封じた。
仕事に持ち込まない。感情を表に出さない。
空を見て、呼吸を整えて、静かに、なかったことにする。
青い空を見ていれば、心は凪いでいく。
やがて――恋の感情は薄れていった。
恋とは何か、わからなくなるほどに。
リタの恋は、完全に麻痺していた。
――このまま一生、秘めておこう。
そう思っていた。それなのに。
結婚の話が、降ってきた。
止めていたはずの感情が、また揺れ出す。
けれど、一度麻痺したものを戻すのは難しい。
どうやって恋をすればいいのか。
どうすれば、夫婦らしくなれるのか。
わからない。未知すぎる。
だからリタは、考えないようにした。
忙しいふりをして、流れに身を任せて――
そして、ふと胸の奥でつぶやく。
(……館長、どうしたらいいんですか)
答えは、まだどこにもなかった。




