18.リタ、目が覚めたあのころを思う 1
仕事を辞めてから、昼の時間が長くなった。
家事をする必要もない。
決められたレッスンが終われば、あとは自由。
気づけば、ほとんどの時間を本と過ごしていた。
時間があると、過去を思い出す。
もともと、ぼんやりと自分の世界に沈むのが好きだった。
何もせず、ただ考えているだけの時間。
それだけで、満たされることもある。
――けれど。
(本当に、これでいいのかな)
ふと、そんな疑問が浮かぶ。
何かをしようと思っても、思いつかない。
これまでの人生は、必要に迫られて動くことばかりだった。
やらなければいけないことがあって、
だから動いていただけ。
「やりたいこと」を自分で選ぶことには、慣れていなかった。
(贅沢な悩みだよね)
そう思って、少しだけ笑う。
前世なら、映画を見たり、ドラマを見たり。
そういう時間の潰し方があった。
けれど、この世界にはそれがない。
あるのは、本だけ。
歌をうたったり詩も書いたりもできる――
誰かに見せるのは、少し怖い。
結局、本を開く。
文字の中に潜っていると、誰にも触れられない。
誰にも見られない。
自分だけの場所にいられる。
空を見上げる。
ふわりと、体が浮くような感覚。
世界から切り離されて、自分だけが残っているみたいだった。
――私は、誰なんだろう。
――どうして、ここにいるんだろう。
呼吸が、少し重くなる。
このまま、消えてしまえたら。
そんなことまで、よぎる。
「リタ!」
声に引き戻される。
顔を上げると、扉のところに館長が立っていた。
「驚かせるな。お前、ときどき消えそうになる」
「そんなに、ぼーっとしてました?」
「ぼーっと、じゃないな。魂が抜けてる」
いつものように淡々とした口調。
でも、ほんの少しだけ心配が混ざっている。
「このまま寝たら、よく眠れそうです」
「眠れてないのか?」
少しだけ間があく。
「……そう見えました?」
本を閉じる。
同じ寝室ではある。
が、一度として来た気配はない。
館長はどこでも眠れる人だ。
資料室の床でも、本棚の陰でも。
何度も踏みかけたことがある。
――あれを思えば、不思議じゃない。
そう、思うことにする。
「悪いな。時間が取れなくて」
「いえ。ちょっと意地悪を言っただけです」
本当は、少しだけ寂しかった。
でも、それは言わない。
「疲れてないか?」
「その反対です。……暇で」
「暇?」
少しだけ眉が動く。
「レッスンはあるけど、長くないですし。学院でやっていたことの延長なので」
「ああ……そうか」
館長が、ふっと目を細めた。
「リタは、リタだったな」
「どういう意味です?」
「そのままだ。不器用そうで、妙に器用だ」
「不器用なのは否定しません」
「この屋敷だと、本は少ないだろう」
「書庫があるんですか?」
「ある。……まだ見てないのか」
「はい」
「じゃあ、案内するか」
その一言で、空気が少し変わる。
「楽しみです!」
自然と声が弾む。
思い出す。
図書館に入りたての頃。
館長が、書庫を案内してくれた日。
あのときの空気。
あのときの温度。
本のある場所は、どこでも少し違う。
国が違えば、並ぶ本も違う。
空気も、匂いも。
それが好きだった。
けれど。
(いつから、本が好きだったんだろう)
前世では、そこまでじゃなかった気がする。
でも、思い出せない。
思い出せそうで。
少しだけ、手を伸ばせば届きそうで。
でも、届かない。
その違和感だけが、静かに残った。




