17.リタ、始まる貴族の日々
結婚して、数日が過ぎた。
朝は、メグに一日の予定を確認するところから始まる。
それが、今のリタの日常だった。
夫になった人のことを、まだ「館長」と呼んでしまう。
本当は名前で呼んだほうがいいのだろう。
けれど、二人きりになる時間は、ほとんどない。
だから、言い出すきっかけもなかった。
人前では「ミハエル様」。
それで困ることはない。
(……夫、なんだよね)
ふとした瞬間に、現実だけが遅れてくる。
結婚しても、何も変わらない。
館長が言っていた通りだった。
朝食は、それぞれの部屋で。
料理は専属の料理人が用意する。
昼は別々。夜も、ほとんど一人。
家族で食卓を囲むことはない。
オーロラ様とリッカルド様は、ふたりだけで食事をしているらしい。
リタは――
館長と同じ屋敷にいながら、
どこか別の場所にいるような感覚だった。
「午前は音楽のレッスンがございます。午後はどうなさいますか?」
メグの落ち着いた声。
整えられた言葉。
無駄のない所作。
すべてが「貴族の暮らし」だった。
「……オーロラ様のところへ。領地のお話も聞きたいし」
「かしこまりました」
静かに一礼される。
その動きがあまりに自然で、少しだけ距離を感じる。
「お茶菓子、ミセス・ココアのクッキーがいいかな……?」
「すぐに手配いたします」
迷いなく返ってくる言葉。
リタは少しだけ戸惑った。
誰かに何かを「頼む」こと。
それが、まだうまくできない。
(自分でやったほうが早いのに……)
そう思ってしまう。
けれど。
それをしないのが、この世界の“正しさ”だった。
*****
「エクセレント!!」
ぱっと明るい声が響く。
「さすがリタ様ですわ!」
「……ありがとうございます」
自然と顎を引く。
褒められることに、慣れていない。
むしろ、落ち着かない。
午前中は音楽の時間。
鍵盤の楽器は、前世でも触れていた。
だから、弾ける。
けれど――得意かといわれれば、そうでもない。
いつも「もう少しで届かない」ところにいる感覚。
それは昔から変わらない。
「マナーも完璧、音楽も問題なし、ダンスも基礎は十分」
レイチェル夫人が大げさに手を広げる。
「教えることがなくなってしまいそうですわ!」
明るく、よく笑う先生。
その言葉に、リタは少しだけ視線を落とした。
(そんなに、すごくないのに)
そう思ってしまう。
兄も、妹も。
いつだって、自分より先に進んでいた。
自分は、その後ろをついていくだけ。
――凡人。
その言葉が、どこかに残っている。
(もっと、ちゃんとしないと)
(迷惑をかけないように)
(恥ずかしくないように)
気づけば、心の中で何度も繰り返している。
がんばれば、結果は出る。
けれど。
どこかが、少しずつ削れていく。
「ちゃんと休むことも仕事のうちだ」
ふと、思い出す。
あのときの声。
資料を読み込んで、遅くまで残っていた夜。
館長にそう言われた。
あの言葉は、ずっと残っている。
なのに。
(今は……言ってくれないんだ)
ほんの少しだけ、胸が静かに沈む。
「次は少し難しい曲に挑戦してみましょうか?」
レイチェル夫人の声に、はっとする。
「はい」
リタはうなずいた。
鍵盤に指を置く。
音が、部屋に広がる。
正しくて、整っていて。
――でも、どこか足りない。
結婚したはずなのに。
何も変わっていないようで。
でも確かに、何かが変わっている。
その正体は、まだわからなかった。




