14.リタ、職場を退職する
ローラと出会ってから、一か月。
仕事の引き継ぎもすべて終わり、いよいよ退職の日を迎えた。
あの日――
ショコラの店で、館長の義姉であるローラと会ってから。
リタの心は、どこか落ち着かないままだった。
今まで、館長に女性の影を感じたことはなかった。
長い時間、同じ職場で過ごしてきたからこそ思う。
あの人に、恋愛をする余裕なんてなさそうだと。
それはきっと、周囲も同じ認識だったはずだ。
だからこそ――
あんなにも自然に隣に立つ女性の存在が、少しだけこたえた。
年上の館長だ。
リタの知らない過去があるのは当然だと思う。
そう、頭ではわかっているのに。
実際に目の前で見てしまうと、胸の奥が重くなる。
この気持ちはなんだろう。
嫉妬――なのだろうか。
けれど、そんな可愛らしい言葉で片づけていいものでもない気がした。
リタは、自分を低く見積もる癖がある。
館長と自分が釣り合うはずがない。
そんな思いは、最初からずっと消えないままだ。
だから、時々思ってしまう。
――たまたま近くにいたから。
――断るのも面倒だから。
そんな理由で選ばれたのではないか、と。
好きな人と結婚できる。
本来なら、それだけで満足なはずなのに。
どうしてこんなにも、心は不安定になるのだろう。
「リタ、どうしたの?」
「え……」
声をかけられて、はっと顔を上げる。
出勤最終日だというのに、ぼんやりしてしまっていた。
やることは、もうほとんど残っていない。
荷物をまとめて、挨拶をして、それで終わりだ。
学生から社会人へ。
前世でも同じように、働き始めた記憶がある。
けれどこの職場は、思っていた以上に居心地がよかった。
いい同僚がいて、いい上司がいて。
本に囲まれて過ごす日々は、穏やかで満たされていた。
「今日で終わりなんだなって思ったら……ちょっと」
「わかる。私も辞める日が来たら、ぼーっとしちゃいそう」
カヤはやわらかく笑った。
彼女もいずれは仕事を辞めるだろう。
結婚したばかりで、子どもを持てばなおさらだ。
この世界で、女性が仕事を続けるのは簡単ではない。
館長がいれば、きっと違った。
リタが望めば、環境だって整えてくれる人だ。
実際に、子どもを産んだあとも働こうとした先輩もいた。
館長は配慮してくれた。
けれど、それでも負担は大きくて――
彼女は、仕事を辞めることになった。
あのときの、悔しそうな顔を思い出す。
「子どもはほしいけどね。ちょっと怖いのよね」
カヤがぽつりとつぶやく。
「家に入ったら、そのまま時間から取り残される気がして」
その気持ちは、少しわかる。
リタは、館長との子どもをまだ想像できない。
というより、そこまで考える余裕がない。
結婚だけでも、まだ現実味がないのだから。
仕事を辞めることに、ほっとする気持ちはある。
けれど同時に、怖さもあった。
職場に行けば、居場所があった。
役割があった。
自分がここにいていい理由があった。
それがなくなる。
それは、思っていたよりもずっと大きな変化だった。
「リタは、結婚したらどこに住むの?」
「最初は王都の屋敷です。それから、領地のほうにも」
答えながら、自分でも少し不思議に思う。
自分が、そんな場所に行くことになるなんて。
「勉強もしないといけないので……正直、不安です」
「リタなら大丈夫、って言いたいけどね」
カヤは苦笑した。
「貴族の慣習って、家ごとに全然違うから」
「カヤさんも、結婚してから驚いたことありました?」
「あるある。いっぱいあるよ」
くすっと笑う。
「夫の実家、味が濃すぎてね。最初は涙出たもの」
「え……」
「北のほうって保存食が多いでしょ?塩漬け文化だから」
「なるほど……」
思わず納得する。
「館長の領地は東だったよね?」
「はい。だからちょっと楽しみで」
「逆に食べすぎるかもね」
「それは……一番心配です」
少しだけ、笑えた。
こうして何気ない会話をしている時間も、もう終わる。
そのあと、後任の館長に挨拶をし、同僚一人ひとりに菓子を渡した。
ミセス・ココアの焼き菓子の詰め合わせ。
別れを惜しむ声と、祝福の言葉。
花束まで受け取って、リタは図書館を後にした。
荷物はほとんどない。
けれど腕の中の花が、やけに重く感じられた。
自室に戻ると、力が抜けた。
着替える気力もなく、そのままベッドに倒れ込む。
気がつけば、母に起こされていた。
「ごはん、食べる?」
少しだけお腹が空いている。
どんな気分でも、お腹は減る。
それが、なんだか少しだけ救いだった。
明日からの自分が、まだ見えない。
明日から、どんな日々が始まるのだろう。




