12.リタ、金曜日の女神に出会う 1
「リタ、リタ……?」
本当においしい。
リタは、ほんのりと香るカカオの風味に思わず頬をゆるめた。
ミセス・ココアが新しく店を出すことになったのは、城下でも一等地と呼ばれる場所だった。
その開店記念として、親しい客や関係者を招いた小さな披露の会が開かれ、ありがたいことにリタも館長と一緒に招待されていた。
ミセス・ココアは、この時代には珍しいほど短い髪をしている。
ミディアムよりも短く、ほとんどショートカットに近い。
漆黒の髪。
黒檀を思わせる深い瞳。
白い肌と、どこか中性的な美しさ。
気品があるのに近寄りがたすぎず、不思議な魅力を持つ人だった。
資産家の出だと聞く。
だが数年前、夫を亡くし、その夫が愛していたというチョコレートをきっかけに店を始めたのだという。
ミセス・ココアの作るショコラは、甘い。
けれどくどくない。
味そのものはシンプルなのに、香りが深く、口に入れた瞬間にふわりとほどける。
その上品さに、あっという間に貴族たちが夢中になった。
今回オープンするのは、チョコレートの販売だけではない。
目の前でデザートを仕上げてくれるキッチンライブ付きのカフェ。
店内は木の温もりがあり、磨かれたガラスケースの中には宝石のような菓子が並んでいた。
リタが今食べているのは、開店記念として用意された特別なルビーチョコレートのデザートだった。
淡い赤色。
果実のような酸味と、やわらかな甘み。
もう一口。
もう一口だけ。
「リタ、リタ……?」
「は、はい!」
ようやく我に返る。
怪訝そうな顔で、館長がこちらを見ていた。
どうやら目の前の甘味に夢中になりすぎて、館長がそばにいることすら一瞬忘れかけていたらしい。
「飲み物がなくなっている。追加で頼むか、と聞いたんだが」
「飲み物……ほしいです!」
即答だった。
館長は呆れたように眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。
リタにとって、甘いものは特別だ。
仕事で疲れたとき。
仕事で怒られたとき。
仕事で失敗して、気分が沈んだとき。
そんなささくれ立った事務員の心を、何度も何度も救ってくれたのがミセス・ココアのチョコレートだった。
前世の世界では、もっと甘いものは身近だった。
コンビニに行けば季節限定のスイーツが並び、少し足を伸ばせば百貨店の地下で話題の店に出会えた。
バレンタインの時期になれば、海外の高級チョコレートも手に入った。
もちろん恋愛には縁がなかったから、買うのはたいてい自分へのご褒美用だったけれど。
前世の記憶があるからこそ、今の世界の不便さに気づくこともある。
自由に使えるお金があっても、欲しいものが少ないというのは、案外つまらない。
でも。
ミセス・ココアのチョコレートに出会ってから、リタは欲しいものに困らなくなった。
甘いもの。
香りのいいもの。
心をほどいてくれるもの。
実家はパン屋だ。
食卓に並ぶ素朴なパンなら、父の焼くものが世界一だと思っている。
けれど父は甘いパンにあまり興味がない。
総菜パンはリタが何度も頼んで種類を増やしてもらったが、菓子パンはどうしても少ない。
だからこそ、余計にチョコレートの世界は特別だった。
この世界では、カカオはもともと薬に近い扱いだった。
嗜好品として広まったのは、ミセス・ココアの実家が西方との交易を持っていたからだと聞く。
カカオに砂糖を混ぜ、飲み物として楽しんでいた習慣を、そのまま菓子へと広げた。
趣味のように始めた店はたちまち評判になり、王都だけでなく隣国からも客が来るようになった。
商品開発のために、学友たちまで巻き込んで試作品を重ねたという話も聞いたことがある。
リタも何度か、試作品の感想を聞かれたことがある。
ほんの一言ふた言答えただけなのに、その意見をちゃんと取り入れてくれていた。
あっという間に人気店になるのも、当然なのかもしれない。
「そういえば、昔もよくチョコレートを食べていたよな」
「え……そう、でしたっけ」
リタは少しだけ首を傾げた。
甘い香りのする店内。
木の温もり。
居心地のいい空気。
つい気が抜けてしまう。
「聞いてないな?」
「チョコは食べてます!」
「まあ、いい。もっと食え」
館長は呆れ半分、諦め半分といった口調だった。
リタは集中しすぎると、周囲が見えなくなる。
それは館長も似たようなものだが、リタの場合はもともとぼんやりして見えるので、さらに反応が遅くなるとよく言われる。
けれど、ひとつだけ妙な引っかかりがあった。
(そんなに館長の前でチョコ、食べてたかな……)
図書館は基本的に飲食禁止だ。
だからチョコレートを食べるのは、仕事帰りに買って家でゆっくりするときが多い。
あとは家族とのお茶の時間。
職場で館長の前で頻繁に食べていた記憶は、あまりない。
けれど、すぐに思い直す。
(好きって話したことはあるし、おすそ分けしたこともあるし……それで覚えてくれてたのかも)
そう思えば不自然ではない。
細かいことだ。
それより、今は追加で頼まれた甘いココアの方が気になる。
ホイップクリームがこんもりのった、少し贅沢な一杯。
これも、以前リタがぽろりと口にした案をミセス・ココアが形にしてくれたものだった。
館長はチョコレートも食べるが、そこまで大量にはいらないらしい。
彼の前には、香りのよい紅茶が置かれていた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から声が聞こえた。
新しい客が入ってきたのだろう。
すると、不思議と店内の空気が少し変わった。
周囲の客たちの視線が、一斉に入口へ集まっていく。
誰が来たのだろう。
リタもつられて視線を向ける。
館長もまた、同じ方向を見ていた。
そして、その先にいたのは――
金髪に青い瞳の女性。
目を奪われるほど美しい。
ただ綺麗というだけではない。
艶やかで、完成されていて、どこか人間離れした雰囲気さえある。
まるで、女神。
「ローラ」
館長が、その名を呼ぶ。
女神は、館長を見つけると、ゆるやかに微笑んだ。




